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コラム「蘇州たより」

上海と蘇州を結ぶ蘇州河(呉淞江)  【蘇州たより 工藤和直】vol.3 (読む時間:約2分半)

    • そもそも太湖は海であった。第四氷河期、無錫から蘇州にかけては大湿地帯で、その海洋の部分に長期間にわたり長江が運ぶ土砂が蓄積、海を遮断して淡水湖になった。6000年前、海岸線は今の昆山と上海嘉定の中間付近であり、唐の時代になって現在の呉淞江(蘇州河)と黄浦河の合流地点が海岸線となった。上海は極めて最近になって長江が作った都市である。


      唐代は華亭県の一部だったが、蘇州河の南に上海浦という村ができ、宋代に上海鎮とよばれた。これに対し黄浦江下流の現虹口区あたりには下海廟も存在した。1292年に上海県となったが、それ以前は江蘇省に属した。潮が引くと陸地が現れ、潮が満ちると陸地が消える、海の上になったり下になったりするので、上海と呼んだ。16世紀半ば倭寇の侵略から守るために、豫園のまわりに丸い上海城を作った。その城跡が現在の人民路と中華路の丸い道路である。
      1842年の南京条約により、上海は条約港として開港した。これを契機として、イギリスやフランスなどの租界が形成され、後に日本やアメリカも従った。1865年に香港上海銀行が設立され、欧米の金融機関が本格的に上海進出を推進した。1871年には、香港と上海を結ぶ海底通信ケーブルが開通し、日本の長崎にも延伸された。1873年には、日本の岩倉使節団が上海の市内見学をしており、当時の上海の様子を「米欧回覧実記」に記している。


      上海の原住民は、松江あたりに居住していた。1840年のアヘン戦争以後経済発展する上海へ、蘇州近隣の地方から次々に移民が入ってきた。現在の上海人の8割以上は、北の江蘇省と南の浙江省からの移民(もしくは難民)である。特に長江南部と浙江省北部の江南地方出身者が上海人の半分以上を占める。これが上海の文化にも大きな影響を与えている。上海語は寧波語、蘇州語と上海本地語の混血である。


      商売に長けた蘇州人と政治に敏感な浙江人が近代上海の歴史を作ってきた。清の末期、太平天国など一連の革命運動や商売のため、広東省からの移民もやってきた。広東人は運輸、デパート経営などに関わった。これらが融合して商売上手で政治批判大好きの上海人が出来たのである。そして、アヘン戦争と太平天国の乱によって疲弊した蘇州は、明時代世界一の人口と繁栄を築いたが、その地位を上海に譲る事となった。


      上海市中心地区を流れる「呉淞江(蘇州河)」で浚渫工事が終了したのを受けて遊覧船が復活した。この河こそが交通不便な時代、蘇州⇔上海の水上交通路として使われた水路である。この河の先に蘇州があった。蘇州・無錫・常州・鎮江への交通路として一番利用したのが、この蘇州河であった。最も早く蘇州⇔上海間航路を開業したのは大東汽船㈱である。従来の船では4~5日を要した蘇州⇔蘇州間を小型動力汽船によって昼夜1日で運行、瞬く間に運輸業の雄と呼ばれる存在になった。蘇州城南東の端から南に下ると宝帯橋がある。中国に現存する一番長い石造橋であり創建は唐時代に遡る。上海から蘇州河を西に行き、蘇州に入る場所に存在する。宝帯橋を南下すれば杭州に至る。


      1908年、上海から蘇州・南京への鉄道網が敷設され、蘇州河の役目は終えた。自動車の時代となった今では花鳥風月穏やかな風情だけが、昆山から蘇州にかけて見られるようになった。


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    2014.11.18

    蘇州にあった大丸百貨店、大連にあった三越百貨店 【蘇州たより 工藤和直】vol.2 (読む時間:約2分)

    •  我が国の百貨店海外進出は、1899年(明治22年)2月に高島屋がフランスリヨンに販売事務所を開設した事から始まる。では小売目的で海外に出店進出を始めたのは1906年10月、三越が京城(ソウル)に進出したのが最初である。明治末期から海外進出を積極的に展開したのは、三越・高島屋・大丸・松坂屋・そごう・白木屋の6社であった。


       現在蘇州市にある外資系大型百貨店(店舗)と言えば、2008年園区に出来た「久光百貨店」、2011年新区に出来た「イズミヤ」、そして2013年になって「イオン」が上げられる。蘇州城内の中心地に観前街と言う日本の銀座・上海の南京路の小型版と言えるショッピング街がある。終日歩行者天国でもあり、中心には玄妙観と言う大寺院がある。その前の宮巷をしばらく行くと、「人民商場」と言う建物に出くわす。この建物が戦前に進出した「大丸:大丸洋行」である。写真は大丸跡地になる人民商場ビルの戦後間もない頃の建屋である。現在は今風の建物になっているが、その骨格はそのままである。1938年3月に商工省は「大陸百貨店進出要請」を発令する。その地域への物資の流通を百貨店に担当させたのである。三越の記録にも「満鉄の理事から、社員諸氏へ日用品を廉価で供給せさしむべく、早急なる大連出店要請があり」とある。


       大丸は当初、華北地域を調査した。最終的には1938年に南京に雑貨食料店を開設した。その翌年の1939年に上海文路店に引き続き大丸蘇州店(百貨店)を開業、2300坪の売り場面積は当時とすれば、三越大連店と同規模であった。その後1940年に天津(400坪)、1943年にはシンガポール店(3000坪)を開業した。商工省としては、各社に担当地域を分担させた。白木屋は杭州、高島屋は南京、松坂屋は蕪湖、そして蘇州は大丸が分担となった。


       1906年、三越は京城(ソウル)に日本初の海外展開を行い、翌年には大連にも出店した(1907年)。この大連三越は今でも市内中山路に「秋林女店」としてピンク色にはなったが建屋はそのまま使われている。大連は日本の建築物が多い。満鉄経営の大和ホテル(現大連賓館)などは今でも現役である。同じく京城(ソウル)三越は戦後「新世界百貨店」本店として現在も運営されている。


       戦後、多くの百貨店が海外展開を成功させるが、戦前経験した海外進出ノウハウが有効に作用した結果と言えよう。また、その根源には海外経験駐在者と言う「人」が多く居たからである。事業の根幹は「人」であるとことを再度思い知った次第である。


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    2014.11.10

    蘇州に残る「日本国領事館」跡 【蘇州たより 工藤和直】Vol1 (読む時間:約2分)

    •  現在中国には、北京大使館の他に香港・広州・上海・重慶・瀋陽・青島に総領事館がある(大連は出張事務所)。戦前には、天津・漢口(武漢)・奉天・上海・重慶・ハルビン・杭州・蘇州にあった。のちに総理大臣となる吉田茂は、入省後20年間中国勤務で、天津・奉天総領事の経験があった。


      蘇州城内南の人民橋を越えた南門路南に、ヨーロッパ建築様式の蘇州領事館を1902年竣工し、上海領事館の分館とした。当時はまだ鉄道がなく、蘇州に行くには、上海市外灘北の蘇州河から船で行くしかなかった。当時中国で一番の工業は、製糸絹織物業である。当時財閥の一つであった片倉製糸(現在の片倉工業)は明・清時代から繭の市場に成長している蘇州に目をつけ、領事館付近に瑞豊繭行という製糸工場建設に着手した。今は、蘇州金葉糸服有限公司敷地内である。そこはシルク製品を扱うショッピング施設にもなっているが、その施設に隣接して「日本国領事館」跡がある。日本人が作ったとすぐ分かる石造り3階建てである。上海外灘の石造り建築物と規模で負けるが、非常に立派なヨーロッパ風洋館である。特徴は、東方向を向いて玄関がある。東京を意識したのだ。


       蘇州市文化財であることも表示されていた。玄関扉を開けて入った、室内には金葉の職員が常駐し、全部を見ることは許可されなかった。各部屋には暖炉があり、ここで領事館業務をしていた事がすぐ理解できた。中央部に吹き曝しの階段があり2階以上に行くことができた。総領事公室は突き当たりの 20畳程度の広さである。部屋から外に通じるベランダを歩くと、周囲の木々に包まれ最良の環境である。


       領事館跡から見て北東部、ちょうど南門路に接する付近に小学校跡地がある。ここがかつて「蘇州尋常高等小学校」跡地ではないかと思われる。22名の生徒が居たと記録されている。また、1920年代当時の在留邦人数は78名と記録されている。 写真は昨年11月に在上海日本国総領事館小原総領事ご夫妻と訪問した時のものである。



       今年4月に群馬県の富岡製糸場が世界文化遺産に登録された。この富岡製糸場は明治5年官営工場として操業開始、1939年片倉製糸(現片倉工業)により吸収合併、戦後も日本の復興に大きな貢献を挙げ、1987年に110年に渡る歴史に終止符を打った。その後、片倉工業は毎年1億円の維持費をつぎ込み、その甲斐もありこの度の世界遺産となった。歴史を後世に残したい言う意気込みがあってと賞賛したい。また、製糸場内に学園を作り、良妻賢母教育も施したと記録がある。この片倉工業(製糸)こそ、百年前ここ蘇州に進出、貢献した我々日系企業の大先輩になろう。

       

    2014.08.04
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