新規登録
コラムニスト募集中
日経新聞
DMMコラム
蘇州たより
上海の街角で
JETRO
上海日本商工クラブ
在上海日本国総領事館
ラクト
上海人
香港リーダーズ
C.L.Mリーダーズ
経営者.マガジン読者の集い
2015稲盛和夫経営哲学上海報告会
中国ニュース
株式会社TOHOKI
人気ページランキング
  • 今週
  • 今月
  • 殿堂
  • JBSコラム Vol.3

  • 会計税務、人事労務、法務、健康、教育等、会社の進出から撤退までをワンストップで支援。

  • 上海リーグ法律事務所 コラム vol2

  • ビジネスシーンで活用する中国語講座vol4

  • 知的財産権の取得・侵害対策、企業内不正対応を中心に、中国での企業活動をワンストップで支援。

  • JBSコラム Vol.3

  • ビジネスシーンで活用する中国語講座vol4

  • 知的財産権の取得・侵害対策、企業内不正対応を中心に、中国での企業活動をワンストップで支援。

  • 上海リーグ法律事務所 コラム vol2

  • 会計税務、人事労務、法務、健康、教育等、会社の進出から撤退までをワンストップで支援。

  • “One Team, No Border” 会計税務を中心に企業のグローバル化を全力で支援しております。

  • ビジネスシーンで活用する中国語講座 vol.8

  • 微博・微信を中心とする中国ソーシャルソリューションサービスをワンストップで提供しています。

  • 会計税務、人事労務、法務、健康、教育等、会社の進出から撤退までをワンストップで支援。

  • リスク管理領域を中心に日系企業の中国事業を支援させて頂きます。

コラム「蘇州たより」

蘇州市高新区28年の歴史 【蘇州たより 工藤和直】vol.7 (読む時間:約4分)


    • 蘇州に初めて来たのは1987年の冬であった。冬のせいもあるが男女とも紺か黒の人民服で、上海南京西路には異常なくらい自転車があふれていた。上海から蘇州まで車で5時間近くかかった。大運河を越えて蘇州高新区へ渡る獅山橋は当時まだ無く、寒山寺付近から渡し船で渡り、政府のマイクロバスで運河沿いを南下、蘇州高新区開発地域の将来について「見渡す限りの野原が、5年後には大工業団地となる」と拝聴した。半分嘘だろうと思ったが、20年後には大規模な日本企業団地&日本人村になったのは本当に脅威に値する。


      kudou07-03


      写真は1990年頃のまだ無いカルフール付近から見た新区(獅山橋が完成後)である。高新区管理委員会や金獅大廈ビルが建築中である。体育館やサッカー場はまだない。1994年くらいからか、ぼちぼち高新区商業街(日本人街)に日本料理屋らしきものができた(現在500m両脇に日本料理屋57軒、スナック32軒が密集)。商業街出口には蘇州日本人学校もある。この辺りに8千人の日本人が住み、海外での日本人密集度が世界一とか言われている。


      2013年実績を見ると、中国に進出した外資系企業は44万社と言われる。その内日系企業は3.7万社(約8%)である。蘇州市進出の日系企業は2500社で全日系の7%、日系企業に従事する全中国人は1000万人とも言われる中、蘇州は製造業主体であるため100万人(10%)を雇用。長期ビザ取得の日本人は1万人を超え、上海5.6万人に次ぐ。また、日本との輸出入貿易額は200億ドルを越え、同じく約10%規模、蘇州は日中両国の国益を考えると、この四半世紀で非常に重要な都市になったと言える。


      筆者が蘇州で新会社を作りいよいよ土地購入などに入った2003年春、SARSが起こった。家族に馬鹿と言われながらも中国へ片道切符で来た(当時、日本に帰国しても1週間は発病可否を見るためホテルに缶詰め)。上海から江蘇省の入口になる花橋インターで数時間検査待ち、6時間後ようやく蘇州市内に到着した。政府との交渉や銀行回りを昼間行い、夕方からは新区商業街にひとり繰り出した。当時の商業街は、今の半分の広さの泥道であった。SARS騒ぎで人影も少なくどの店も客はほとんど居ない、いつも行くのは川淵にある日本料理伊藤園2階にあった「蝶」と言うスナック、夕方6時過ぎに入り、下の日本料理屋からのご飯を小姐数名といっしょに食事、バックミュージック代わりに流れるカラオケに知る歌があれば歌い、無ければ世間話、夜も10時になり帰ろうとすると「次のお客さんが来るまで」と止められ、結局真夜中12時まで誰も来ず、小生一人が今日のお客と言う有様であった。最後に150元を払って6時間に及ぶ滞在が終了、これが毎日の日課であった。その後、2004年2月から正式に蘇州駐在となった。


      日本人が多く住む高新区の歴史を調べてみた。高新区建設が始まったのは1986年6月13日である。筆者が中国に初めて来た時の1年前になる。そして1992年11月12日に「蘇州国家高新技術産業開発区」と命名された。面積は223km2である。当然開発するにあたり多くの道路工事が着工、今では当然のようにある道路名もそれぞれ謂れがある。開発区政府が出したコンセプトは「真山真水園中城」である。南北の道は「水」に関係し、東西の道は「山」に関係する名称になっている。


      高新区管理委員会があった運河路、京杭大運河の西に南北に走る。原名は北河路・創業路と言い1994年に現在の名前になった。濱河路、馬運路から南に運河路に並行して南北に走る。獅山路、蘇州駐在者が一番歩くメイン通路である。大運河を渡る獅山大橋が出来て、東の三香路と一直線につながり、西の獅子山の麓にある蘇州楽園を結ぶ東西の幹線となった。獅子山は、まさに獅子が臥しているかのように見える。岝山とか岝崿山が原名である。獅子山に行ったら分かるが花崗岩の山である(昔は火山であった)。金山路、旧日本人学校・建築中の日航ホテル前を東西に走る。西で天平山にぶつかるが、昔は金を掘る山と言う事で金山と呼ばれた。宋の時代からは金より花崗岩を切り出す。蘇州城内西に金門があるが、そこから金山が見えたから金門と命名された。鄭尉路、金山路の1本北を東西に走る。鄭尉と言う小山あり、官職が大尉であった鄭禹(明時代)が住む。漢詩に優れ、観梅の季節に近所の山での宴で多くの漢詩を作った。「早春二月、花は雪の如し」と言う事で、「香雪海」と言うレストランが蘇州市内他に多く点在する。華山路、老子の「枕中記」に、華山は呉県の西にあり、近くに天池山ありと記載、馬運路と何山路の中間を東西に走る。玉山路、獅山路の1本南を東西に走る。フリップスの跡地が日本人学校(現在500名規模)となった。昆山市玉山(玉峰山)から命名した。下の写真はいずれも1990年代の高新区、懐かしい風景である。ここから、今の大蘇州高新区が出来上がったのだ。


      kudou07-05 kudou07-04

       

    2014.12.16

    「西施」を尋ねて霊岩山に登る 【蘇州たより 工藤和直】vol.6 (読む時間:約3分)


    • 蘇州は、2500年以上の歴史をほこる古都である。古くは春秋時代、呉王・闔閭(在位BC514年~496年)が都の西南部にあたる姑蘇山に「姑蘇台」を、その子夫差(在位BC495~476年)は美女・西施のため、この姑蘇台に「館娃宮」を設けた。現在霊岩山と称する頂にある「姑蘇台山頂花園」は、館娃宮「御花園」の遺跡だとされており、中国で一番古く現存する庭園でもある。蘇州新区から霊岩山に行くには、511番のバスに乗り最終バス亭で降り、正面山頂に見える霊岩塔(多宝仏塔)を目指して徒歩で約40分である。


      西施、春秋戦国時代の「傾城の美女・妖怪」とも言われ、数数多おれど中国四大美人の一人(その他は年代別に王昭君・貂蝉・楊貴妃:添付写真)である。その美貌はどれほどであったか?生きておれば2500歳であるが、触るものは花となり、肌を滴る雨は香水となったとか。沈魚美人と後世に云われるが、彼女が川で洗濯をする姿に見とれて、魚達は泳ぐのを忘れて沈んでしまったとか。魚が溺れるほどの美人だと言うことだ。


      その他四大美人への二字熟語表現もすばらしい。「王昭君(落雁)、飛んでいる雁がその美しさに落ちるほど。貂蝉(閉月)、その美しさに満月が隠れるほど。楊貴妃(羞花)、美しい花が恥らうほど」。これだけの美辞麗句はないであろう。


      「西施」本名は施夷光(西子ともいう)、春秋時代末期の浙江省紹興市諸曁県(現在の諸曁市)生まれだと言われている。現代広く伝わる西施と言う名前は、出身地である苧蘿村に施と言う姓の家族が東西二つの村に住んでいて、彼女は西側の村に住んでいる施さんだったため、「西施」と呼ばれるようになった。


      kudou06-03


      越王勾践が呉王夫差に復讐のため献上した美女たちの中に、西施や鄭旦などがいた。貧しい薪売りの娘として産まれた施夷光は、谷川で洗濯をしている姿を見出されたと言われている。策略は見事にはまり、夫差は彼女らに夢中になり、呉国は弱体化、ついに越に滅ぼされることになる。西施は呉に来てから2回しか笑わなかったと謂われている。実は大根足であったとも言われている。まあ美人に生まれると悲しいもので、ちょっと悪い所を極めて悪く言うのは世の常である。まして洗濯の時に見える足は、光の屈折原理で子供の足も大根足になる。これは一般的な物理現象である。


      呉が滅びた後の生涯は不明だが、越王勾践の夫人が彼女の美貌を恐れ、夫が呉王夫差の二の舞にならぬよう、また呉国の人民も彼女のことを「妖術で国王をたぶらかし、国を滅亡に追い込んだ妖怪」と思っていたことから、生きたまま皮袋に入れられ長江に投げられたとか言われている。その後、長江で蛤がよく獲れるようになり、人々は西施の舌だと噂しあった。この事から、中国では蛤のことを「西施の舌」とも呼ぶようになった。いやいや逃げて、新しい男とちゃっかり生きたのでないかと思うのは、筆者だけだろうか?


      時は1250年後の唐の時代、偉大な詩人「李白」がここ霊岩山の山頂にある「山頂花園」で詠ったのが有名な「蘇台覧古」である。「唯今惟有西江月曽照呉王宮裏人:西に流れる川を月が照らしている。かつて呉王宮殿の美女(西施)を照らした月である。そして今もこの山々を同じ月が照らしている」と、唐の時代から更に1250年が過ぎたが、この場所に立つと今も同じ風情を感じるのが不思議である。


      時は移り、世界三大美人と言うと、クレオパトラ・小野小町・楊貴妃を上げる場合があるが、これは日本だけであろう。蛇足ながら芸能界で言えば、初代三人娘は「美空ひばり・江利チエミ・雪村いずみ」、2代目が「中尾ミエ・伊東ゆかり・園マリ」、3代目が「天地真理・小柳ルミ子・南沙織」であったと記憶する。中国四千年のなか、女性は百億人生まれたと言われる中の4人、その遭遇確率は0.4PPB(PPBは10億分の1)で、1億円宝くじにあう確率が一般に一千万分の一と言われから、四大美人に会うまでに、1億円宝くじが400回当たると言う計算になる。中国初訪問からはや25年だが、道理で西施に会わないのか?と納得した次第である。


      参考:霊岩山寺の入館料、何と「一元」です。


      kudou06-04

       

    2014.12.09

    副島種臣と寒山寺  【蘇州たより 工藤和直】vol.5 (読む時間:約1分半)

    • 副島 種臣(そえじま たねおみ)、文政11年(1828年)~明治38年(1905年)は、江戸幕末期の志士・佐賀藩士、明治時代の日本の官僚・政治家。初名は竜種(たつたね)。通称は次郎。号に蒼海(そうかい)、一々学人(いちいちがくじん)などがある。書家としても優れた作品を残した。


      明治4年(1871年)に外務卿となり、翌年マリア・ルス号事件において活躍。マリア・ルス号事件とは、横浜港停泊中ペルー船籍のマリア・ルス号内清国人「苦力」を奴隷であるとして、日本政府が解放した事件。正義・人道の人と国際的に支持された。明治6年(1873年)2月、特命全権公使兼外務大臣として清の首都北京へ派遣され、日清修好条規批准書の交換・同治帝成婚の賀を述べた国書の奉呈および交渉にあたった。この間、清朝高官との詩文交換でその博学ぶりを評価されている。同年10月、征韓論争に敗れて下野し、明治7年(1874年)には板垣退助らと共に愛国公党に参加、同年には民撰議院設立建白書を提出したものの、自由民権運動には参加しなかった。西南戦争中は、中国大陸中南部を旅行滞在している。


      1860年太平天国の乱によって壊滅した寒山寺を1876年(明治9年)時の外務卿副島種臣が訪問、その時の漢詩が左下。清の高官も驚く才能であった。唐の詩人「張継」の原文が右下であるが、実に巧みなるパロディー表現で当時閑散とした寒山寺の情景が極めて良く伝わる漢詩である。


      寒山寺はその後、1904年再建されることになった。


           【副島種臣】
      月落烏啼霜満天 月落ち烏啼きて霜天に満つ
      江楓夜泊転凄然 江楓夜泊うたた凄(せい)然
      兵戈破却寒山寺 兵戈(へいか)破却す 寒山寺
      複無鐘声到客船 また鐘声の客船に到る無し


               【張継】
      月落烏啼霜満天 月落ち烏啼きて霜天に満つ
      江楓漁火対愁眠 江楓漁火愁眠に対す
      姑蘇城外寒山寺 姑蘇城外の寒山寺
      夜半鐘聲到客船 夜半の鐘声客船に到る


      kudou05-03

    2014.12.02

    谷崎潤一郎と芥川龍之介の上海・蘇州放浪記  【蘇州たより 工藤和直】vol.4 (読む時間:約2分半)

    • 私が初めて蘇州に行こうと思って読んだのが司馬遼太郎の街道を行く<江南の道>であった。今でこそ旅行本は多く、世界中どこに行くにも不自由はない。では100年前はどうだったのであろうか?その旅行本の先駆けになったのが、谷崎潤一郎「蘇州紀行」であり芥川龍之介「江南遊記」であった。ちょうど南満州鉄道も完成し、上海⇔北京間も開通した1910年頃になると、ちょっと大陸に行こうかと言う日本人が多く見られた。


      谷崎は1918年(大正7年)、朝鮮半島に渡り満州から北京そして南下して漢口・南京・蘇州・上海と移動している。芥川は谷崎に遅れること3年、1921年(大正10年)3月に上海に上陸、谷崎とはまったく反対のコースである。芥川の文章には至る所に谷崎を意識した文が出てくるが、「まるで仇への礼賛」と思われんばかり対照的である。


      谷崎は1918年(大正7年)11月22日午前に南京を発ち、蘇州城外北に位置する蘇州停車場に着いた。駅からは外堀沿いに南下、盤門から南門(人民路)南にある租界地の旅館までの約6kmを馬車で移動。盤門の西を行く時「左手の濠の方を見ると長い城壁がそのまま殷賑な蘇州市街を包んで居ようと思へないほどの穏やかに、まるで牢屋の堀のように静かに続いて、その向こうにはたった一つ、灰色の高い塔(瑞光寺)が聳えているだけであった」と蘇州紀行に書いてある。租界地には日本人経営の工場や商店、旅館があり谷崎も芥川もこの中の日本旅館に宿泊した。


      kudou04-03


      谷崎は朝鮮・満州には興味を示さず、南京・蘇州・上海が気に入ったようだ。蘇州紀行の中では「私は天平山(蘇州の西郊外)の紅葉なんかどうでも良い、むしろ道中の運河の景色が良い」と書いている。そして翌日には運河(蘇州城の外堀)巡に興じている。その翌日、驢馬に乗って盤門南の呉門橋を通り蘇州城内見物をしている。上海では新劇を観たり、大世界で人形芝居を観たり、まずい西洋料理を食したりしている。


      芥川は大正8年に大阪毎日新聞に入社、翌々10年に海外特派員として中国への旅に出た。3月30日には上海に入港するが、乾性肋膜炎で3週間「里見病院」に入院。病み上がりの取材(新聞社員)のためか、彼の中国評価は極めて低い。「街の不潔」「乞食」「売春婦」など、「上海は何かと騒がしく、人間もソワソワして実に忙しい。蘇州や杭州・南京・漢口も見ましたが、良かったのは北京王府と蘇州の景でした」とかある。


      蘇州の景について唯一あるのは、蘇州停車場から南に1kmの北塔寺の上から眺めた状況を「黒い瓦屋根の間に鮮やかな白壁を組み込んだ町並みが、思ったより広々と広がっている。その向こうに霞を帯びた高い塔があると思ったら、それは孫権が建てたとか云う名高い瑞光寺の古塔であった」とだけ記述している。


      kudou04-04


      谷崎は中国の景色の中に「日本」を探そうとしたのに対し、芥川は常に「人」を見て、中国の風景より、市井の中の庶民の生活を見た感が強い。中国の「不潔」を言う背景には西洋列強の植民地主義を厳しく非難する芥川の「怒り」が感じられる。結論として、谷崎は「ロマンチック」であり、芥川は「リアリズム」であったと言う事であろう。


      参考文献
      *蘇州紀行(谷崎潤一郎)中央公論
      *江南遊記(芥川龍之介)岩波書店

       

    2014.11.27

    上海と蘇州を結ぶ蘇州河(呉淞江)  【蘇州たより 工藤和直】vol.3 (読む時間:約2分半)

    • そもそも太湖は海であった。第四氷河期、無錫から蘇州にかけては大湿地帯で、その海洋の部分に長期間にわたり長江が運ぶ土砂が蓄積、海を遮断して淡水湖になった。6000年前、海岸線は今の昆山と上海嘉定の中間付近であり、唐の時代になって現在の呉淞江(蘇州河)と黄浦河の合流地点が海岸線となった。上海は極めて最近になって長江が作った都市である。


      唐代は華亭県の一部だったが、蘇州河の南に上海浦という村ができ、宋代に上海鎮とよばれた。これに対し黄浦江下流の現虹口区あたりには下海廟も存在した。1292年に上海県となったが、それ以前は江蘇省に属した。潮が引くと陸地が現れ、潮が満ちると陸地が消える、海の上になったり下になったりするので、上海と呼んだ。16世紀半ば倭寇の侵略から守るために、豫園のまわりに丸い上海城を作った。その城跡が現在の人民路と中華路の丸い道路である。
      1842年の南京条約により、上海は条約港として開港した。これを契機として、イギリスやフランスなどの租界が形成され、後に日本やアメリカも従った。1865年に香港上海銀行が設立され、欧米の金融機関が本格的に上海進出を推進した。1871年には、香港と上海を結ぶ海底通信ケーブルが開通し、日本の長崎にも延伸された。1873年には、日本の岩倉使節団が上海の市内見学をしており、当時の上海の様子を「米欧回覧実記」に記している。


      上海の原住民は、松江あたりに居住していた。1840年のアヘン戦争以後経済発展する上海へ、蘇州近隣の地方から次々に移民が入ってきた。現在の上海人の8割以上は、北の江蘇省と南の浙江省からの移民(もしくは難民)である。特に長江南部と浙江省北部の江南地方出身者が上海人の半分以上を占める。これが上海の文化にも大きな影響を与えている。上海語は寧波語、蘇州語と上海本地語の混血である。


      商売に長けた蘇州人と政治に敏感な浙江人が近代上海の歴史を作ってきた。清の末期、太平天国など一連の革命運動や商売のため、広東省からの移民もやってきた。広東人は運輸、デパート経営などに関わった。これらが融合して商売上手で政治批判大好きの上海人が出来たのである。そして、アヘン戦争と太平天国の乱によって疲弊した蘇州は、明時代世界一の人口と繁栄を築いたが、その地位を上海に譲る事となった。


      上海市中心地区を流れる「呉淞江(蘇州河)」で浚渫工事が終了したのを受けて遊覧船が復活した。この河こそが交通不便な時代、蘇州⇔上海の水上交通路として使われた水路である。この河の先に蘇州があった。蘇州・無錫・常州・鎮江への交通路として一番利用したのが、この蘇州河であった。最も早く蘇州⇔上海間航路を開業したのは大東汽船㈱である。従来の船では4~5日を要した蘇州⇔蘇州間を小型動力汽船によって昼夜1日で運行、瞬く間に運輸業の雄と呼ばれる存在になった。蘇州城南東の端から南に下ると宝帯橋がある。中国に現存する一番長い石造橋であり創建は唐時代に遡る。上海から蘇州河を西に行き、蘇州に入る場所に存在する。宝帯橋を南下すれば杭州に至る。


      1908年、上海から蘇州・南京への鉄道網が敷設され、蘇州河の役目は終えた。自動車の時代となった今では花鳥風月穏やかな風情だけが、昆山から蘇州にかけて見られるようになった。


      kudou03-03kudou03-04

    2014.11.18

    蘇州にあった大丸百貨店、大連にあった三越百貨店 【蘇州たより 工藤和直】vol.2 (読む時間:約2分)

    •  我が国の百貨店海外進出は、1899年(明治22年)2月に高島屋がフランスリヨンに販売事務所を開設した事から始まる。では小売目的で海外に出店進出を始めたのは1906年10月、三越が京城(ソウル)に進出したのが最初である。明治末期から海外進出を積極的に展開したのは、三越・高島屋・大丸・松坂屋・そごう・白木屋の6社であった。


       現在蘇州市にある外資系大型百貨店(店舗)と言えば、2008年園区に出来た「久光百貨店」、2011年新区に出来た「イズミヤ」、そして2013年になって「イオン」が上げられる。蘇州城内の中心地に観前街と言う日本の銀座・上海の南京路の小型版と言えるショッピング街がある。終日歩行者天国でもあり、中心には玄妙観と言う大寺院がある。その前の宮巷をしばらく行くと、「人民商場」と言う建物に出くわす。この建物が戦前に進出した「大丸:大丸洋行」である。写真は大丸跡地になる人民商場ビルの戦後間もない頃の建屋である。現在は今風の建物になっているが、その骨格はそのままである。1938年3月に商工省は「大陸百貨店進出要請」を発令する。その地域への物資の流通を百貨店に担当させたのである。三越の記録にも「満鉄の理事から、社員諸氏へ日用品を廉価で供給せさしむべく、早急なる大連出店要請があり」とある。


       大丸は当初、華北地域を調査した。最終的には1938年に南京に雑貨食料店を開設した。その翌年の1939年に上海文路店に引き続き大丸蘇州店(百貨店)を開業、2300坪の売り場面積は当時とすれば、三越大連店と同規模であった。その後1940年に天津(400坪)、1943年にはシンガポール店(3000坪)を開業した。商工省としては、各社に担当地域を分担させた。白木屋は杭州、高島屋は南京、松坂屋は蕪湖、そして蘇州は大丸が分担となった。


       1906年、三越は京城(ソウル)に日本初の海外展開を行い、翌年には大連にも出店した(1907年)。この大連三越は今でも市内中山路に「秋林女店」としてピンク色にはなったが建屋はそのまま使われている。大連は日本の建築物が多い。満鉄経営の大和ホテル(現大連賓館)などは今でも現役である。同じく京城(ソウル)三越は戦後「新世界百貨店」本店として現在も運営されている。


       戦後、多くの百貨店が海外展開を成功させるが、戦前経験した海外進出ノウハウが有効に作用した結果と言えよう。また、その根源には海外経験駐在者と言う「人」が多く居たからである。事業の根幹は「人」であるとことを再度思い知った次第である。


      kudou02-03kudou02-04

    2014.11.10

    蘇州に残る「日本国領事館」跡 【蘇州たより 工藤和直】Vol1 (読む時間:約2分)

    •  現在中国には、北京大使館の他に香港・広州・上海・重慶・瀋陽・青島に総領事館がある(大連は出張事務所)。戦前には、天津・漢口(武漢)・奉天・上海・重慶・ハルビン・杭州・蘇州にあった。のちに総理大臣となる吉田茂は、入省後20年間中国勤務で、天津・奉天総領事の経験があった。


      蘇州城内南の人民橋を越えた南門路南に、ヨーロッパ建築様式の蘇州領事館を1902年竣工し、上海領事館の分館とした。当時はまだ鉄道がなく、蘇州に行くには、上海市外灘北の蘇州河から船で行くしかなかった。当時中国で一番の工業は、製糸絹織物業である。当時財閥の一つであった片倉製糸(現在の片倉工業)は明・清時代から繭の市場に成長している蘇州に目をつけ、領事館付近に瑞豊繭行という製糸工場建設に着手した。今は、蘇州金葉糸服有限公司敷地内である。そこはシルク製品を扱うショッピング施設にもなっているが、その施設に隣接して「日本国領事館」跡がある。日本人が作ったとすぐ分かる石造り3階建てである。上海外灘の石造り建築物と規模で負けるが、非常に立派なヨーロッパ風洋館である。特徴は、東方向を向いて玄関がある。東京を意識したのだ。


       蘇州市文化財であることも表示されていた。玄関扉を開けて入った、室内には金葉の職員が常駐し、全部を見ることは許可されなかった。各部屋には暖炉があり、ここで領事館業務をしていた事がすぐ理解できた。中央部に吹き曝しの階段があり2階以上に行くことができた。総領事公室は突き当たりの 20畳程度の広さである。部屋から外に通じるベランダを歩くと、周囲の木々に包まれ最良の環境である。


       領事館跡から見て北東部、ちょうど南門路に接する付近に小学校跡地がある。ここがかつて「蘇州尋常高等小学校」跡地ではないかと思われる。22名の生徒が居たと記録されている。また、1920年代当時の在留邦人数は78名と記録されている。 写真は昨年11月に在上海日本国総領事館小原総領事ご夫妻と訪問した時のものである。



       今年4月に群馬県の富岡製糸場が世界文化遺産に登録された。この富岡製糸場は明治5年官営工場として操業開始、1939年片倉製糸(現片倉工業)により吸収合併、戦後も日本の復興に大きな貢献を挙げ、1987年に110年に渡る歴史に終止符を打った。その後、片倉工業は毎年1億円の維持費をつぎ込み、その甲斐もありこの度の世界遺産となった。歴史を後世に残したい言う意気込みがあってと賞賛したい。また、製糸場内に学園を作り、良妻賢母教育も施したと記録がある。この片倉工業(製糸)こそ、百年前ここ蘇州に進出、貢献した我々日系企業の大先輩になろう。

       

    2014.08.04
    1 6 7 8
    コラム一覧
    全てを見る