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ニ月礼者 【上海の街角で 井上邦久】vol28 (読む時間:約3分半)

  • 2017.02.20

    中日友好を貫いた「青島学院」 【青島たより 工藤和直】Vol.66 (読む時間:約2分)

  • 2017.02.14

    青島の風景「日本人学校の今昔」 【青島たより 工藤和直】Vol.65 (読む時間:約4分半)

    • 青島は、当時漁村に過ぎなかった青島村に1897年(明治30年)、突然ドイツ海軍陸戦隊が上陸占領したことから始まる。青島の歴史は120年前に始まった。写真左は将来青島の中心となる観海山(総督府山)から青島湾にかけての傾斜地である。おそらく現在の小魚山公園から撮影されたのであろう。草木がほとんど見当たらない、月の砂漠である。写真に見える建物は清国衙門兵営で、奥の方に天宮后のシンボルである2本の門柱が微かに見えている。衙門兵営の右方には下青島村の民家も見える。元々の青島人はここに住んだ方々である。現在の青島は山東省各地から集められた人々によって作られ、発展していった。左奥の海浜に桟橋が見える。この延長が中山路になる。


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      ドイツは1898年から僅か15年で、この何もない傾斜地に、絵のように美しい緑と赤き屋根の住宅を持つ青島(小ベルリン)を造り上げた。ドイツという国の構想力と実行力には驚きを禁じ得ない。一例が青島駅である。現在の駅は拡張して、東西と南の三つの改札口があるが、当時は写真のように東改札口のみでスタートした。斜めに落ちる褐色の屋根が青島駅の特徴である。


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      1914年の日本軍による軍政が始まると、小学校・中学校・女学校の建設がすぐに始まった。ドイツ租借時代にすでに学校の建設が進んでいたのが幸いした。日本の小学校は1913年(大正2年)に西本願寺(現在は無棣四路小学校)で開校していたが、ドイツ降伏後すぐに既存学校の利用が始まった。青島市内における日本人小学校を2校とすることを1917年(大正6年)に決定して花咲町(現武定路)に新校舎の建設に着手、1917年(大正6年)に開校。翌年1918年(大正7年)4月に落成した新校舎を青島第一尋常高等小学校とした。何と1915年(大正4年)に先に開校した青島日本小学校(佐賀町)を第二尋常小学校と定めた。


      佐賀町(広西路×常州路)の第二尋常小学校校舎(生徒数230名)は1905年(明治38年)に開校したドイツ総督府実科中学校を修理して使った。校舎の壁は全て花崗岩で覆われ、屋根裏階まで含めると4階建ての荘重な建物であった。この総統府学校は中国人富裕層向けの教育機関で、12教室・280名収容であった。第2尋常小学校には高等科は併設されなかったことと、借物でなく日本独自創建を優先したため第一尋常小学校と命名しなかったと思われる。左は、ドイツ総督府実科中学校が竣工したときの写真で、校舎は丘陵上にあった。現在は海軍関係の施設になって中に入ることは不可能であるが、玄関前の階段は昔のままであることが理解できる。卒業式・入学式の時の集合写真はこの階段を使うことが多かったという。1918年(大正7年)5月には生徒数576名となった。


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      急増する就学児童の増加に対し、民生部は1917年(大正6年)にもう一校の新設を決定した。1918年(大正7年)4月に落成した第一尋常高等小学校は、花吹町(武定路)に校庭面積17,762坪(58、600平米)、校舎は近世ゴシック式煉瓦造で建物総坪数は666坪(2,200平米)であった。後年、13,100坪(43,200平米)の大運動場が拡張され、5年後の1927年(昭和2年)に完成した。名実共に日本最大級の運動場となり、青島における各種の行事に利用されるようになった。また、合わせると10万平米を越える日本一の小学校を誇った。この第一小学校には尋常科と共に高等科が設置された。1918年5月の記録では、尋常科児童750名、高等科生徒87名とある。


      学校前に通学児童が見受けられる。また学校前の道路(武定路)はまだ舗装されていない。現在、武定路は建家に囲まれた狭い道路だ。学校跡は現在、徳愛花園大酒店として使われている。玄関から入る花崗岩の石段は当時のままで、各教室はホテルの部屋に改装されている。宿泊は可能である。正面建家は二階建てであるが、奥は三階建てとなって、かなり大規模で日本内地で考えられない蒸気設備(冬の暖房)もあったようだ。その奥に43,000平米の大グラウンド(現在は青島第二体育場)があった。日本内地の小学校が木造であったのに対し、大学並みの荘厳な建築物であることが周囲を一周することで認識できる。この小学校にあったピアノで中村八大が演奏したと言う記録もある。


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      青島守備軍第2代司令官大谷中将が青島における高等普通教育として最初に着手したのは、青島日本高等女学校の設立であった。大正5年(1916年)、青島高等女学校は旧ドイツ女学校跡に設立され、大正7年若鶴山山麓(黄台路10号)に新校舎が落成、女学校は新校舎に移動した。ちょうど設立100周年になる。写真では全校生徒が体操を練習しているが、これによると開校初期において制服はまだセーラー服ではなかったようだ。現在は、四季花園賓館になっているが、正門にある花崗岩造りの門柱は当時のままで、そこから建物の間に広がる空間で体操を行なったと思われ、黄台路側から撮った写真であろう。生徒数は152名と記録されている。人数のわりに大きな校舎である。


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      同じく大谷中将の命令で、青島日本中学校は1917年(大正6年)、旭ケ丘(ドイツ・イルティス兵営跡地)に開設された。イルティス兵営は1899年太平山南麓(今の中山公園)に作られた二階建ての建物であった。男子中学校より先に高等女学校が先に開校されると言う珍事が起こった。開設当初の制服は、冬服は紺色詰襟、夏冬は鼠霜降詰襟であった。1921年(大正10年)、旧ドイツ自動車廠跡地(ビスマルク兵営)に建設中であった新校舎が落成し、桜ケ丘校舎と呼ばれ全校生徒が新校舎に移動した。新校舎の敷地は15,892坪(52,400平米)、校舎の延坪数は1,936坪(6,400平米)で、当時の日本においては稀に見る堂々とした外観を有していた。校舎内に寄宿舎があり、膠済線沿線の生徒ばかりか全中国各地から、ここに寄宿勉学した。現在も中国海洋大学正門前にある門柱は昔のままである。


      学校内のため外部の方は入門できないが、亡父の友人に旧制青島中学の出身者が居た事を思い出し、中国語で「亡き父がここを卒業した」と守衛に言って、建屋内を案内して頂いた。建設後百年近く経つが、大きさと言いその正面玄関背後にある広い中庭と別棟の校舎建屋、北西に広がる運動場(昔の教練場)へ下りる階段は当時の花崗岩であり、遠く真正面にドイツ総監官邸(日本軍司令官邸)が見える。これが中学校とは思われない。内地の帝国大学がこれに匹敵する建屋であろう。旧制青島中学は名門であり、内地の有名官公大学・高等学校・私立大学や専門学校に多くの卒業生を輩出した。在籍記録の中に、石丸寛(九州交響楽団・東京交響楽団指揮者)や中村八大(上を向いて歩こう・こんにちは赤ちゃん等の作曲家)などの異彩児も居る。下記に校舎内部の写真を示す。日本に引揚げ後70年以上になるが、各学校卒業生は定期的に集っているようだ。青島中学は鳳雛会、青島高等女学校は若鶴会と称して、OB・OG会を開催している。


      参考文献:青島物語


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    2017.01.28

    梅蘭芳 【上海の街角で 井上邦久】vol27 (読む時間:約4分)


    • 春節を目前にした横浜の中華街、関帝廟ちかくの横浜中華学院から聞こえてくる太鼓の音にも熱が帯びて来ました。一方、横浜山手中華学校では、徐夕の日に新潮戯院による京劇ワークショップが開催される予定です。寒気のなか、月は細くなり、紅い灯籠も鮮やかさを増して、春節の到来を感じさせます。


      昨年、東京の成城ホールで、石山雄太さんらの新潮戯院による京劇を観る機会がありました。北京では長安戯院などの大劇場に通い、上海では福州路の庶民的な天蟾逸夫舞台で聴いて以来の京劇であり、しかも舞台近くの良い席でしたので久しぶりに堪能しました。


      石山雄太さんについては、よく知られている通り、中国戯曲学院附属中学校から留学し、同大学を卒業後に外国人として初めて中国国家京劇院に所属を認められ、日本・中国で地道な活動を続けて居られます。


      京劇を海外で初めて公演したのは、梅蘭芳の率いる劇団であり、1919年の日本に於いてでした。二回目の来日公演は1923年で、関東大震災慰問のチャリティ興業であったとのことで梅蘭芳に関する美談も残っています。戦後日本での初の京劇上演は1956年で、やはり梅蘭芳一行でした。その折の録画をNHKで見たおぼろげな記憶があります。日本の歌舞伎の近代化を京劇改革に採り入れ、絶世の女形、そして『親日家』として日本人の間でも絶大な声価が高く、好感を持たれていたようです。


      梅蘭芳については多く語られ、京劇の進化発展に貢献し(二胡の導入など)、欧米でも爆発的な人気を博したことは広く知られています。ここでは、冗語を避けて、林語堂による梅蘭芳への簡潔無比な賛辞を記すことに留めます。


        他是造物主精妙無比傑作
        He is a wonderful masterpiece of the Creator.


      かれこれ5年以上前、日本からの友人夫婦とともに北京の下町、和平門近くをぶらついて居た時に、しもた屋風の店がポツンポツンとあるだけの人通りの少ない路に紛れ込み(あとから確認すると、前門河沿街でした)、背の高い壁が続くなかで、ある家の古い門が開かれ、客寄せ人が出て来ました。取り立てて此れといった目的はないけど、好奇心はある我々三人は、このような朽ち落ちた街路の壁の中に劇場があるのか?と訝りながら木戸銭を払って入ると、中はかなり奥深く、整然とした内庭に続く劇場は清潔な作りでした。この偶然が、数百年の歴史を持ち、梅蘭芳の祖父から続く劇団の常打ち場であった「正乙祠戯楼」との遭遇でした。改造改装されて日も浅そうな劇場で、梅蘭芳の息子である梅葆玖が総監する「梅派」の名作のダイジェスト上演を待ちました。


      梅蘭芳が創作し、練り上げた「覇王別姫」や「貴妃酔酒」ではなく、おどろおどろしい武人が出てくる「抗金兵」から始まりました。


      「抗金兵」は1933年に上海で初演。金による宋への侵略が続く中、長江防衛線の潤州(鎮江)の守将である韓世忠とその夫人梁紅玉が金兵を追い返した歴史故事に題材をとった作品です。金兵を迎撃せんと金山江上に布陣した味方を鼓舞する為に、梁紅玉が自ら太鼓を鳴らした場面が見所のようです。


      九一八事変のあと、梅派京劇の故地である北京を捨てて、梅蘭芳は1932年に一家を挙げて上海に移住しています。そこで「抗金兵」を創作して、自ら将軍夫人の梁紅玉を演じています。女性ながらも勇猛果敢に、敵に抗する女大将として唱念・撃鼓・武打など京劇技法を駆使して演じきり、上海天蟾舞台の満場の観客は梅蘭芳の抗戦戯劇に割れんばかりの拍手を送ったとのこと。


      その後、1941年に役者生活に終止符を打ち、香港・上海で遁世しています。その間、どんな懇請や圧力があっても舞台に立たず、女形役者を廃業する意思表示として髭を生やしたとも言われています。髭面の梅蘭芳の写真は未だ見る機会がありませんが、稀代の女形が髭を蓄えたことの重み、その抵抗姿勢に、戦前戦後の日本人が安易に「親日派」と思い込んだ梅蘭芳の骨の太さや硬さを感じます。戦争終結後の1945年10月には舞台復帰しています。


      横浜中華街に本店を置く『梅蘭』で名物の焼きそばを食べた後、中国人マダムに、店名の由来として梅蘭芳とご縁があるのか?と軽口を叩きました。しかし残念ながら中年のマダムは、梅蘭芳その人をご存知なかったので話が続きませんでした。55年前に亡くなった京劇役者のことを、春節の太鼓を聴いて思い出す酔狂な日本人客の方が普通ではないと自重自戒しました。


      ただこれからも「抗金兵」が舞台に掛かることがあるでしょう。(但し、頻繁に上演されないことを祈りますが)歴史教育が強化されるという昨今の政策下で、若い上海人が「抗金兵」に抗日意識を募らせ、割れんばかりの拍手を送るかどうか?福州路方面へ行かれる折に舞台を覗いてみてはどうでしょう。(了)


    2017.01.22

    旧青島日本総領事館跡と青島神社跡を訪ねて 【青島たより 工藤和直】Vol.64 (読む時間:約5分)

    • 1915年から1945年の30年間、2度に亘って日本の統治下に置かれた青島に4万とも5万ともいわれる日本人が住んでいた。かつて街のいたるところでは「中野町」「伊勢町」「横須賀町」「姫路町」といった日本名の道路名が名づけられ、着物を着た日本人が往来を歩いていた。昔の日本総領事館跡は太平路(旧ホーエンツオーレン通り:旧舞鶴町)と青島路(旧ウイルヘルム通り)との交差点東にある。この建物は1906年、ドイツの徳華銀行青島支店(ドイツアジア銀行)として建築された。 徳華銀行はドイツ租借地「青島」にある実質上中央銀行の役割を持ち、通貨「青島ドル」の発券銀行であった。


      第一次日本統治時代から総領事館として運営が開始され、民政部の一部局庁舎として利用されていた。日独戦争勝利後、青島は日本の軍政下におかれ、1923年1月、行政権を中華民国政府に返還、1923年3月31日になり、青島日本総領事館として再使用した。 建家はネオルネッサンス様式で円柱・アーチ・コーナーストーンを配置、1945年の敗戦までここで領事館業務が続けられた。


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      総領事館の敷地はかなり広く、東側の江蘇路との間に九水路があり、そこに領事館警察署があった。昭和12年(1937年)7月、盧溝橋事件に端を発した支那事変が勃発し、青島にも危険が迫った8月、時の総領事大鷹正次郎は、青島在留邦人に対し総引揚げを勧告した事もあった。写真正面が太平路でその前がすぐ海岸である。青島路の方向に行けば、次の交差点(広西路)でドイツ領事館になり、その奥に重厚なドイツ総監府(その後日本軍司令部)である。また、現在は迎賓館となっているが、信号山公園全体を占めるのが当時青島最大の豪邸であった総監官邸(その後日本軍司令官邸)である。黄色の壁に剥き出しの花崗岩造りの豪邸である。総監府建物内にドイツ時代の説明はあるが、日本軍司令官宅であった事は記載されてない。


      日本総領事館は現在、民家となっている。北側の広西路から内部に入ることが可能である。太平路側の玄関から入ると、床はタイル張りで内部に吹き抜け階段があり、天井にステンドグラスが貼ってあった。ここで領事館業務をしたのであろう。北隣には日本民家らしき家も見られた。日本領事館の東側に山東鉄路鉱路公司(広西路14号)がある。1902年ドイツは「租借条約」によって膠済鉄道敷設権と鉄道線路両側15kmの採掘権を得たが、その開発のためにドイツが作った会社をそのまま日本が引き継いだ。


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      青島神社は大正4年 (1915年) 、青島守備軍がモルトケ山(若鶴山)西側山腹を社地(敷地約6900坪)と定め、大正6年(1917年)5月に青島守備軍司令官から工事開始の正式認可を受け、大正7年5月には地鎮祭を執行したのち社殿その他の建物の建築工事を開始、翌大正8年(1919年)11月7日、無事に完竣した。青島神社は天照大神・大国主命・明治天皇を祭神に迎えて鎮座した。青島神社造営にあたり「山東省を大陸発展の基地とし、大陸経営の遠大なる理想の下」を基本方針とした。青島神社は若鶴山(現貯水山)の中腹に、鳥居・拝殿・幣殿・本殿からなる荘重な社殿で構成されていた。青島神社から青島大港など膠州湾沿岸、ならびに青島日本第一尋常小学校やその付近の日本人住居区(川崎町)を一望でき、素晴らしい眺望に恵まれていた。神社への入口は大鳥居のある表参道、黄台路につながる南門、北側は吉林路に出る北門の三ヶ所があった。


      青島神社を正面から見ると、高さ約15米・幅10米の明神型石造大鳥居とその両側にそれぞれ大型の石灯籠が並び立っていた。大鳥居に続く参道は坂道で、両側には桜の若木が植樹されていた。現在はヒマラヤ杉に植え替えられているが、銀杏木などは昔のままと思われる。参道を登り切ると広場があり、右手に手水場があったようだ。その先には社殿に繋がる109段の石造階段が見える。階段を登りきると社殿前の木製鳥居がかつてあった。この木製鳥居の基礎石(亀腹)が写真のように現存している事に驚いた。また、階段を登った左右に石灯篭の基礎石も残っていた。この奥に写真にあるような本殿があったが、今は青島有線電視台になっている。電視台前は広い駐車場となっており、社殿の跡はまったく見られない。この青島神社は靖国神社の2倍の面積であったという。大鳥居があった付近は現在遼寧路科技街バス停(若鶴町)の対面である。


      戦前海外に日本の神社は約1600ヶ所あったといわれ、そのうち中国内に550ヶ所が記録されている。特に旧満州には295ヶ所と一番多く、租借地であった山東青島地区には青島神社、青島台東鎮神社(台東一路35号:1915年3月創建)、坊子(濰坊市)神社(1918年創建)、張店(淄博市)神社(1919年創建)、淄川神社(1918年創建)、済南神社(1941年創建)、芝罘(煙台市)神社(1942年創建)、龍口神社(1930年創建)、威海衛神社(1940年)などが記録されている。


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      青島に駐留する日本人にとって、青島神社は「我らの鎮守様」であった。例祭では川崎町(益都路)や大和町・瀬戸町・若鶴町など日本人街にある商店を中心にして、若い衆による神輿が奉納され、109段の石段を威勢よく駆け上がる風景が見られたという。終戦の日(1945年8月15日)午後には、青島守備隊の軍人が結集し一時物騒がしくなったこともあった。最後の宮司であった宮崎氏は12月20日に青島神社を閉社し帰国、ご神体を明治神宮に奉納してその職を終えた。翌1946年4月20日、一般在留邦人が最後の引揚船で帰国にあたり、全員が神社参拝をした後、米軍トラックで桟橋に移動した。現在青島神社跡は児童公園となっているが、旧満州の新京神社(長春市)や済南神社と同じく、ここに神社があった事を感じさせる心霊スポットである。


      参考文献:青島物語


    2017.01.11

    青島の歴史概略 【青島たより 工藤和直】Vol.63 (読む時間:約5分)

  • 2016.12.25

    『この世界の片隅に』 【上海の街角で 井上邦久】vol26 (読む時間:約4分)


    • 「バカにされたい大学」というキャッチコピーで受験生にアピールしているデジタルハリウッド大学(東京・神田)。「バカにされよう。世界を変えよう。」という姿勢で設立10年目を迎え、注目度を上げているようです。「学歴」とは、学校歴のことだけを意味して、学習歴は不問に付されることが続く中で異色の大学のようです。
      そのデジタルハリウッド大学の萩野健一教授に「聖地巡礼と地域再生」についての報告を身近で聴かせて頂きました。改めて言うまでもないことと思いますが、ここでいう「聖地巡礼」とは、アニメや映画の舞台となった街や土地を訪ねて、作中人物との一体化を試みる行動のことであり、エルサレム、メッカそして四国八十八か所といった聖地を訪ねる巡礼とは異なる新しい用語です。『ローマの休日』でのスペイン広場、『君の名は』で真知子巻きの岸恵子が待った数寄屋橋は映画作品から生まれた伝説的な聖地とされます。
      国内外からの訪問者が増え続けている『スラムダンク』の江ノ電踏切、『神様はじめました』の川越市などのアニメ聖地の紹介がありました。色々と新鮮な発想と情報を教えて貰いながら、「そこに住んでいる人たちがアニメをよく知らないから、なぜ急に人出が増えたのか?分からない」「増えた訪問者をしっかり捉えて地域再生にどのように結び付けるか?地元は手をこまねいている」など多くの現場の実態も知りました。ブームになっても、その多くは2~3年で潮が引いていく傾向があるようで、順風が吹いている間に、地域に根付いた産業や文化に育てるには、受発信を担う地元のキーパーソンを育むことが最も重要だ、という一つの指針に導かれました。
      クールジャパンの掛け声が大きくなる前から日本のアニメの世界的な浸透力は潜在的に広まっていたのであり、最近になって鋭角的に顕在化してきたのではない、という分析には体験的にも同感できました。ただ、それに続く「アニメの技術が優れているから評価されているという見方は皮相的であり、海外の人たちはアニメを通じて日本の文化や日本人の発想法を発見しているのだ」と主張される萩野教授の考察見地が大切だと思いました。アニメ聖地の住民が「なぜ人が来るのか分からない」状態が、実は日本全体にも共通していて、多くの海外からの来訪者の来日目的や心情が「分かっていない」のではないかと考え始めました。


      上海でもアニメ『君の名は。』が封切られ、爆発的な集客に関する報道や口コミが伝えられています。春節前後から新たな四ツ谷の須賀神社など新しい聖地巡礼の対象が増えることは間違いないことでしょう。前評判も高く、封切り前から既視感覚さえ感じていた人たちは、早々に日本渡航の手配を済ませているのかも知れません。一方で『君の名は。』は、いずれ航空機内サービスで視れば良いのではという余裕のある方々もいるようです。一方、DVDや機内サービスではなく、映画館に通って観てもらいたいと思うのは、こうの史代原作の『この世界の片隅に』であります。


      こうの史代が漫画アクションに連載していた『夕凪の街 桜の国』を単行本で読んだのは十年以上前になります。その後、麻生久美子・田中麗奈らが演じる映画を観てからも十年近くになります。原爆投下後の広島に住み続けながら、貧しい生活のなか、原爆の後遺症やトラウマに戦い続ける人たちを描いたある意味で神聖な作品でした。
      あまりにも高い評価を受けた作品のあとでの『この世界の片隅に』でしたが、肩に力を込めた神聖な世界ではなく普通の人たちの生活や世間に誘われます。夕凪の街である広島市郊外の漁村から軍港のある呉へ嫁ぐ主人公すず。実直な夫や双方の家族とのほのぼのとした世界。幼馴染の水兵や遊郭で働く貧しい出自のリンとの交流も含めて、等身大に描かれた庶民の暮らし、まさに世界の片隅の生活を細部に至るまで丁寧に積み上げていきます。積み上げた時間の長さを知らされただけに、呉の大空襲、そして広島の原爆投下によって多くの生命と記憶が短い時間で損なれたことを痛烈に感じます。ほのぼのとした世界が、瞬時に失われる酷さを感じました。長崎への原爆投下を描いた山田洋次監督の『母と暮らせば』にはある種のファンタジーが漂い、こうの史代の『この世界の片隅に』には強ばりのないリアリティを感じました。


      上海では映画館上映の機会が限定的ではないかと推定される『この世界の片隅に』ですので、呉や広島が「聖地巡礼」の対象になるとは一概に言えません。しかし、多くの人たちにも何とか作品に接する工夫をしてもらい、その高度なアニメ技法とともに庶民の粘り強さや向日性気質などを感じとって貰えればなあ、と思います。
      正月や春節休暇を日本で過ごす日本人や海外からの来訪者たちのために、この映画が出来るだけ長く上映され続けることを期待しています。仮に映画館へ行くタイミングを逸した場合には、原作の漫画単行本、或いは雑誌『ユリイカ』11月号の「こうの史代特集」で、その世界に接することも可能です。(了)


    2016.12.21

    十度の荒廃から蘇った城郭都市「蘇州」 【蘇州たより 工藤和直】Vol.62 (読む時間:約8分)

  • 2016.12.09

    五角場 【上海の街角で 井上邦久】vol25 (読む時間:約3分)


    • 10月某日、某所にて、上海D大学のC教授からじっくりお話しを聴かせて頂きました。
      スターバックスのマグカップを前に置き、雑談をすることを惜しむようにメインテーマを語り合いました。C教授が学会に発表される「大上海計画」についての個人授業という、とても贅沢な時間の始まりでした。
      「大上海計画」は、1927年から1937年に南京の国民政府が立てた上海都市現代化を目的とするものであり、その中心理念は民族の発展追求、その核心地域は江湾地区、今の五角場でありました。2010年頃に五角場を歩いたことを思い出しながら地図をたどると、時計回りに淞滬路・翔殷路・黄興路・四平路・邯鄲路の五本の道が形成するペンタゴンの中心が五角場。そして周りには経軸に国政路・国庫路・国和路などの「国」が付く道、横軸には政府路・政治路・政立路などの「政」を冠にする名前の道が沢山あります。2010年当時の政府路などは鄙びた路地のような小路であり、道路名の大きさとのギャップに思わず笑ったこともあります。


       教授の資料によれば、1927年7月に上海特別市政府が成立し、南京とともに中央直轄市になり、同年11月の「大上海計画」設計委員会成立に基づき、市政府大廈(現在の上海体育学院)、スタジアム(現在の江湾体育場)、プール、博物館(現在の長海医院)、図書館(現在の楊浦区図書館)などが1930年前後にかけて陸続として建設されています。


      「道路命名には国民政府が重視する用語が採用されています」、「建築物の設計に三か所の窓やアーチが採り入れられているのは、国民党が掲げる三民主義の影響ではないでしょうか?」という五角場散歩の印象記憶からの素朴な質問に、教授は前者の命名の件は間違いない、後者の設計理念は分からないという冷静な回答を為さいました。
      「同じ時期に、列強租界地を新設の東南西北の中山路で囲ってその増殖を喰いとめようとした、そしてその囲いの外に自分たちの都心を造ろうとした、それが五角場である、という解釈は正しいのでしょうか?」という質問に、教授は「対、対、対」と力を込めて肯定されました。
      更には、その時期の中国経済は地域限定的ながら、高度成長とも言える発展ぶりであり、官僚資本家・民族資本家が力を蓄えつつあったことが、五角場建設などの「大上海計画」の背景にあったことも間違いなさそうです。
      また、医療中心やモデル学校設立や全国体育大会の開催など、孫中山が目指した「民生」の具現化とも言える先駆的な試みもあったことを教わりました。
      もちろん、明るく輝くばかりではなく負の側面もあったことは事実でしょう。ただ、これまで、1949年の中華人民共和国成立までの負の部分、暗部が強調されすぎていたのではないかと気づきました。
      1937年夏の第二次上海事変、そして日本軍部の戦線拡大派の抬頭により「大上海計画」は頓挫。そのまま歴史の遺物のような存在として眠り続けることになり、経済発展、国民教育、民生進歩といった近代中国の夢の実現は立ち消えになりました。
      そして今、上海副都心計画の重要拠点として五角場の拡大は凄まじく、商業や文教の核としての存在感を高めているようです。
      五角場の鄙びた小路に時代錯誤的な名前が残っていることには、「笑えない」歴史的な背景があることを改めて感じています。C教授の引率で五角場をまた歩きたいと思います。
      そんなことをお願いして、冷えた珈琲を飲み干しました。(了)


    2016.11.23

    太湖の南、「徳清県古橋群」を訪ねて 【蘇州たより 工藤和直】Vol.61 (読む時間:約2分半)

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