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春秋戦国時代の貨幣制度 -後編- 【蘇州たより 工藤和直】Vol.60 (読む時間:約5分半)

  • 2016.11.05

    神無月 【上海の街角で 井上邦久】vol24 (読む時間:約4分)


    • 今日、10月19日(水)は、陰暦9月19日。今年は9月、10月と続けて陽暦と陰暦がちょうど一か月ずれなので憶えやすくて助かります。昼間はまずまずの好天でしたが夕方から曇りがちになり、今宵一九夜の月の光は未だ見えません。
      今日は魯迅(周樹人)の命日にあたります。1936年10月19日、55歳の一生を上海市虹口で終えています。主治医の須藤医師の診断内容は竹内好『魯迅』に詳しく記されています。また井上ひさし『シャンハイ・ムーン』でも臨終のシーンが描かれています。一言で言えば、国民党や左翼文学者との激しい諍いの過程で、魯迅の身体はボロボロの状態であったと思われます。
      「今天晩上、很好的月光」で始まる『狂人日記』、自序に続く『狂人日記』に始まる14編の作品集『吶喊』には『故郷』や『阿Q正傳』も収められています。そして、『吶喊』に始まる小説と雑感文章により魯迅の存在感が高まったことに大方の評価は変わりません。
      魯迅は日本と中国の関係が決定的に悪化する前に逝去し、中国共産党が政権樹立後に、魯迅を中国現代文学の旗手として高く評価したことにより、長く神格化されてきた印象があります。最近になって、身の丈通りの魯迅を伝えようとする著作や展示が目に入るようになりました。一例として藤井省三教授の著作で魯迅と許廣平の関係を「女子大教師と教え子との不倫関係の同棲」とする率直な表現に触れ、虹口からハイヤーを飛ばしハリウッド映画を観に行っていたという有名なエピソードも再確認しました。魯迅記念館の研究職には魯迅の妻、朱安についての『私も魯迅の遺物です』という著作があります。この数年で記念館の展示も大幅に変わりました。朱安夫人の写真も展示されています。一方では、共産党新政権の要職に就いた許廣平女史は、魯迅の母親と正妻への送金を続けたという記述もあります。そして、ある人から「魯迅が革命後も存命だったら?」との問いかけに、毛沢東は「相変わらず陰でぶつぶつ不満を漏らしているか、とっくに批判されて消えていることだろう」と応えたという話を聴いたことがあります。


      あるベテラン教授から中国に関するテキストリーディングの指導を受けています。先週は、近代詩の先駆者の徐志摩の『你去』という詩を読みながら、中国語文法の基本を鮮やかに解明してもらいました。今週は、毛沢東の詩文、書のお話でした。その取りかかりとして、勤王の僧である月性の詩『将東遊題壁』を読みました。月性は西郷隆盛と入水自殺を遂げ、西郷は死に至らなかった。その友人の詩を西郷隆盛が大切にしていたことから、この詩が西郷作であると誤解した十七歳の毛沢東が同じような星雲の志を詩に残している、という繋がりでした。
              男児立志出郷関   学若無成不復還
              埋骨何期墳墓地   人間到処有青山
      人間(じんかん)到る処に青山(墓所)あり、という七言は良く耳にします。
      10月19日に毛沢東に関する指導を受け、しかも月性の詩を導入部として読んだことは、偶然とは言え、今日を命日とする魯迅に思いを馳せ、併せて本日を誕生日とする我が身の来し方を振り返る縁(よすが)になりました。


      本編も含めて、1930年代の上海を中心としたテーマで拙文を綴り、毎月不特定の読者の皆様にご笑覧願って足かけ3年になります。それ以前から「上海たより」「北京たより」そして「中国たより」と拠点の名を付した極めて個人的な発信を、毎月特定の方々宛てにお届けしています。二つの文章発信の場と姿勢が違うので、内容を極力重複させないように努めているつもりです。ただ、この神無月10月はその戒めを破って「中国たより『青島会』」と題する拙文との共用を以下の通りさせて頂きます。


      この夏、加藤陽子さんの『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(2010年)が新潮文庫に入り、続いて同じ八月に『戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗』が出版されて、ともに刷数を増やしているようです。
      日清・日露そして第一次大戦が流れとして繋がっていること、そして山東半島や青島がその繋ぎ目として重要な土地であることが改めて解明されています。
      二冊の本は、中高生に授業形式で話を進めるスタイルが共通しています。優秀な中高生が鋭い指摘や回答をしていることも共通しています。後書きで加藤さんは、中高生とともに中高年にもどうぞ、とお誘いをしています。
      「近代史、現代史を授業では習っていないからなあ・・・」という言葉をしばしば耳にします。何故、授業で教えないか?本当に教えていないのか?についてはよく分かりません。ただ、仮に授業での印象が少なくても、知る・学ぶ方法は色々あることを加藤さんは示しています。


      10月19日の夜も更け、高い空で月が光っています。(了)


    2016.10.20

    春秋戦国時代の貨幣制度 -前編- 【蘇州たより 工藤和直】Vol.59 (読む時間:約9分)

  • 2016.10.17

    ソウル城門城壁跡「漢陽都城」を歩く 【蘇州たより 工藤和直】Vol.58 (読む時間:約2分)

  • 2016.10.03

    青島ビールと即墨老酒 【蘇州たより 工藤和直】Vol.57 (読む時間:約3分)

    • 青島には二つの酒がある。一つは皆が思い付く青島(チンタオ)ビールである。もう一つは2300年の歴史を誇る即墨(ジーモー)老酒である。青島ビールは115年の歴史をもつ中国で一番古いビールのひとつである。主力工場は青島駅から北東に約3km行った台東地区にある(青島市登州路)。即墨老酒は、青島ビールからほぼ北に50km、春秋の時代から同じ名前を持つ「即墨」の銘酒である。即墨は青島が出来るまでは山東省東部で最大の都会であった。即墨故城は春秋時代に古硯鎮大朱毛村一帯にあった南北5km、東西2.5kmの外城と内城から成る古代都市である。その歴史は紀元前567年春秋時代になるので、2600年の歴史が漂う。


      kudou57-03


      青島麦酒(チンタオビール)は、1903年に山東省青島で製造が始まった、ビールのブランド。中国で最も古いビールのひとつである。青島は1898年よりドイツの租借地となり、租借地経営の一環としての産業振興策としてビール生産の技術移転を行った。1903年ドイツの投資家がこの地でのゲルマンビール青島株式会社を興してビール製造を開始、ドイツのビール醸造技術を採用したのが始まりである。1914年、第一次世界大戦で日本がドイツ権益であった青島の租借権等を引き継ぐことを認められ、その一つであった青島ビールも日本の大日本麦酒が買収し経営を行うこととなった。大日本麦酒は設備を拡大して、この工場で札幌ビールと朝日ビールの製造も行なった。1922年の山東還付条約によって山東半島に関わる日本側の諸権益は中華民国に返還されたが、青島ビールの経営は引き続き大日本麦酒が行った。1945年の日本の敗戦によって青島ビールの経営権は中国側に完全に接収され、中華民国及び中華人民共和国国営企業による経営が行われた。青島ビールはドイツと日本の技術がブレンドされたものといえる。現在世界5位のシェアーであり、燕京ビールとともに中国トップシェアー銘柄であるのも不思議でない。青島では、飲食店でビールを注文する時、銘柄でいうのでなく工場のナンバーで注文を出す。第一工廠(一厂)、第二工廠(二厂)、第五工廠(五厂)と言った類だ。工場の違いが味の違い、個人の好み(辛口・甘口・にがみ・きれ・アルコール度)の違いになる。写真は第一工廠製造のビールである。そして読者の方に言いたい、「青島ビールは、青島市製造品を青島で飲むのが一番うまい」。


      老酒とは黄酒(紹興酒もその一つ)を長く寝かせた醸造酒で、長江の南の紹興酒は糯(もち)米に小麦麹を使うのに対し、北の即墨老酒は黍(きび)に米・麦麹を使う。黄酒がアルコール度15~18度に対し、即墨老酒は11度足らずと実に飲みやすい。色は薄い琥珀色から紹興酒のように醤油色があるが、濃い色にも関わらず非常にまろやかである。黍を焙煎して作るのでやや焦げ臭いのが特徴である。この即墨老酒には2300年前の経緯があるのに驚いた。


      紀元前284年戦国時代、燕の将軍「楽毅」が、5か国連合軍を率いて斉を攻めた。斉の首都「臨淄」をはじめ小城70余城がことごとく陥落する中、莒と即墨の2城のみがとともに斉側に残った拠点となった。その後数年に渡る篭城攻防の末、即墨は、将軍「田単」の登場によって落城することなく、また彼の活躍によって斉は国土を再び回復することができた。即墨老酒は将軍「田単」が燕との戦いの前に兵士と飲み、ついには燕軍を破る大勝利となったという縁起物の黄酒である。勝負事がある時或いはお祝いの時に飲む酒となった。


      さあ、今宵の中秋の名月、ドイツと日本の技術による青島ビールでまず乾杯し、戦国時代に起こった2300年前の故事を思い出しながら、家族や友と一献どうであろう。「みなさんと乾杯!」


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    2016.09.22

    中日大辞典 【上海の街角で 井上邦久】vol23 (読む時間:約4分)


    • 長年お世話になり、ずっと身近に置いている書物は『中日大辞典』をおいて他にありません。
      最近では、電子辞典の普及で重くて大きな辞書とは縁が薄くなる傾向にあるのでしょう。また熱心に新語を採り入れて増補改版を重ねている『中華現代漢語詞典』のような便利な存在もあります。その他にも各種各様の辞書が出版されて必要に応じた購入ができる今、『中日大辞典』がどのように位置づけされているかについては詳らかではありません。しかし個人的な思い入れが深い辞典であることに変わりはありません。


      手元に置いている愛知大学中日大辞典編纂処編『中日大辞典』には1968年2月1日発行、1971年4月1日再版発行と記されています。編者のことばとして、鈴木択朗編纂委員長は冒頭に「昭和初期以前に中国語を学んだ人にとって最大の悩みは教科書・参考書・辞書がすこぶる不備だったことである」と書かれています。その空隙を埋めるべく上海の東亜同文書院にて日中中国語教師により辞典編纂の準備が始められるも、敗戦によりカード約14万枚、語彙数にして7~8万語の資料が中華民国に撤収され、戦後・革命後に内山完造日本中国友好協会理事長と郭沫若中国科学院院長の仲立ちや周恩来首相の理解の下、1954年9月に引揚船興安丸で日本へ返却され、東亜同文書院の後継である愛知大学にて辞書編纂が再開され、更に十数年を費やして『中日大辞典』が完成されました。
      東亜同文書院の成り立ち、愛知大学の創立そして『中日大辞典』編纂の詳しい経緯については、藤田佳久愛知大学名誉教授による『日中に懸ける  東亜同文書院の群像』(中日新聞社)に詳しく、芥川賞作家の大城立裕氏(1943年に東亜同文書院入学)の『朝、上海に立ちつくす―小説東亜同文書院』(講談社・中公文庫)も実体験者ならではの描写がリアルであった記憶が残っています。
      また教師として、辞書編纂チームにも参画した坂本一郎先生は戦後に関西の大学教授のかたわら蝶理株式会社の中国貿易室でご指導をされていました。短い期間ですが謦咳に触れながら、とても偉い先生と聞いて遠くから燈台のように眺めていることが多かったことが悔やまれます。
      岩波書店から出ていた倉石武四郎氏の編纂による『ローマ字中国語辞典』はローマ字拼音で引く辞典というユニークなものでしたが、なかなか使いこなせずに弱っていました。そんな中国語学習の入門者に『中日大辞典』発行のこと、そして部数に限りがあり入手が困難であることが伝わってきました。1971年の秋の日、再版本が京都御所近くの彙文堂で入手できることを知り、大枚4,000円を握り締めて向かったことを憶えています。3畳一間の下宿屋の家賃が3,000円、そして一か月の生活費が1万円でしたから大きな出費であり、生まれてから一番高い書籍購入でした。しかし、大げさではなく沙漠の羅針盤のようなこの大辞典のお蔭で様々な学恩を貰いました。 東亜同文書院は南京同文書院を編入して、上海黄浦江左岸の高昌廟桂墅里に校舎を開設。辛亥革命後のいわゆる第二革命の内戦時代に破壊されるも一時的に長崎や大村の寺院や上海の共同租界での仮校舎住まいを経て、徐家匯虹橋路の新校舎を建設しました。全国都道府県から自治体の経費負担で各二名の推薦派遣学生を受け入れています。


      東亜同文書院は外地での日本人の為の中国研究、中国語研鑽の教育機関として著名でありますが、逆に中国人にとっての日本研究、日本語学習の学校として、弘文学院や東亜高等予備学校が著名であることを、譚璐美さんが白水社のHP連載を加筆された新刊『帝都東京を中国革命で歩く』(白水社)で教わりました。
      東京市牛込区西五軒町34番地(現、新宿区西五軒町12,13番著)、江戸川橋交差点から神田川沿いにあった弘文学院には清末から民国にかけて7,192人の中国人が入学したとのことです。その中の一人、魯迅(周樹人)は弘文学院で二年間学んだあと、仙台の医学専門学校(後の東北帝国大学医学部)に推薦入学しています。
      東京市神田区中猿楽町6番地に所在した東亜高等予備学校は、年に1,000人から2,000人の中国人留学生が入学した学校で、周恩来・郭沫若・廖承志そして譚璐美さんのお父さんも学んだ教育機関です。1945年、閉校となりました。


      北京、上海そして日本で多くの大学生と交流してきました。日本語弁論大会への支援、集中講座などへの出講、個人的な相談など様々な形で若い世代の中国人や日本人と接しています。十九世紀末から始まった日本と中国の学生交流の足跡を学びながら、自らの若い時代の実践や体験を記録し、次の世代へより良い形でバトンを渡すこと、これが「活到老、学到老」の基本であり、目的の一つかなと思う今日この頃です。(了)


    2016.09.13

    京城風情「今昔物語」 【蘇州たより 工藤和直】Vol.56 (読む時間:約3分)

  • 2016.09.12

    ソウル南山にあった「朝鮮神宮と京城神社」跡を訪ねて 【蘇州たより 工藤和直】Vol.55 (読む時間:約3分)

  • 2016.09.01

    上海の初印象 【上海の街角で 井上邦久】vol22 (読む時間:約4分半)


    • Whenever誌の江蘇版で連載が始まり、好評のうちに北京・天津・上海・広東版にも掲載され、30回のロングラン連載となっている『数字で学ぶ中国経済』を愛読されている方も多いことと思います。改めてそのタイトルを見ると「中国の達人が教える」「中国40年の変遷」というサブタイトルに挟まれていることに気付きました。連載執筆者の松本健三さんとは上海駐在の同年齢の仲間として知り合いました。1980年以前、北京の総公司か広州交易会でしか商談機会がなかった頃から、お互いが日中貿易業界に身を置いていたことが分かってから親密度が高まりました。松本さんは、9月号に「井上さんと私は1970年代から日中貿易に携わってきた最後の商社マンです」という一節を綴られているようです。
      「達人」から「最後の商社マン」と表現されるのは、何とも面映ゆいことで、畏れ入っております。こちらは松本さんと違って、数字にまるで弱く「達人」には程遠い存在です。ただ化石のような最後の商社マンかどうかは別にして、40年に渡る商社での業務を通じて、日中貿易の変遷を体験してきたことは事実です。今もまだ同じ商社に籍を置いているので、商社活動での回想に流れるのは控えます。ここでは商社に入る前、つまり国交正常化以前に体験した上海について素描を試み、松本さんへのアンサーソングに代えます。


      1971年の雪融けの季節、初めての上海へ。学生友好訪中団の仲間20名との団体旅行で、南昌から上海への列車移動でした。香港の羅湖から橋を一人一人渡り、深圳駅で入国審査を受けて以降一か月、すべて列車での移動でした。上海駅に到着する手前から鐘や太鼓が賑やかに鳴り響き、ホームは歓迎の横断幕を掲げる紅衛兵たちでぎっしり埋まり、まさに「熱烈歓迎」でした。駅のホームの賑やかさと対照的に、街はガラ~ンと静まり返り、外国人に開放されていた数少ないホテルの和平賓館も客が少なく、高い天井と暗い照明のせいもあって、ガラ~ンと静かでありました。時々、賑やかになるのは、革命歌を歌いながら「遊行」(行進と訳せば良いでしょうか)する隊伍が窓の外を通り過ぎる時くらいでした。
      夕食後の長い夜の時間を持て余して、本を探しにホテルの読書室に行きましたが、見つけたのは『中国画報』『北京周報』そして『毛沢東選集』全4巻でした。広州でも北京でも同じくこの三点セットだけを目にしていたので印象が鮮明であったわけでして、決して記憶の「達人」だからではありません。もちろん赤い表紙の小さな『毛沢東語録』だけは其処かしこに山積みされていました。現在、街の骨董屋で『毛沢東語録』を売っているのを見るたびに『中国画報』の表紙を飾った健康的な紅い頬をした女工さんや「毛語録」をかざして「遊行」していた紅衛兵たちは、還暦前後となった現在もまだ赤い頬をしているのだろうか、と詮無き想像をしてしまいます。


      外灘で黄浦江の向う側について尋ねると、「辺鄙な土地です」と言うだけの遠い存在で、浦東という名称を使わずに説明されたような気がしています。その逆に虹口の魯迅公園はとても近くに感じました。和平賓館から車の少ない路を飛ばし、途中の何か所に信号機があったか定かではありません。「中国では赤信号はGOなのかな?」という軽口を叩く同行者も居れば、「我々の外国からの来賓(外賓)の車が通る時は、信号を青に切り替えるのだ!」と、したり顔で言う分析好きな同行者も居ました。魯迅公園では立派な魯迅の墓を見て、サトウキビを齧った記憶しかありません。たしか、現在の魯迅記念館の前身の施設も閉鎖中だったと思います。当時、歴史論争・文学論争などは押しなべて政治論争になっていましたから、記念館や博物館の多くは閉鎖されていたのではないでしょうか?一方、静安寺近くに威容を誇っていた工業展覧館は開放されていました。中央に星の塔が聳えるソ連風の巨大な建築物は他を圧していました。1980年代になり上海出張を始めた頃に、中華料理店以外では数少ないレストランとして貴重な場所となり、ボルシチを食べに通った記憶があります。今では、その四方を摩天楼に囲まれて。クラシックな建物は街の底に侍り、見上げていた星の塔も高架道路から横に見えます。
      1970年代初頭の上海見学コースの定番は、馬陸人民公社だったようです。1972年の秋、北京での国交正常化交渉を終えたあと、周恩来首相の接遇で上海を訪れた田中角栄首相・大平正芳外相・二階堂進官房長官の一行も虹橋空港から馬陸人民公社を訪れています。このことについては、以前に「上海たより『馬陸』」に綴りましたので重複を避けます。その後、馬陸は葡萄の産地として有名になり、葡萄園観光としても人気があるようです。かつての馬陸人民公社の名残を探しに行っても見つからず、地下鉄の馬陸駅前にはマンションが林立しています。


      単独で街歩きもできず、定番の訪問先での交流会を通じてのみの上海初体験でしたが、訪れた他の都市との違いとして印象に残っていることがあります。一つは、上海から南京へ移動する際の上海駅のホーム、到着時と同じ型通りの鐘や太鼓が賑やかな中で、横断幕の陰に一人のふてくされた様子の女子紅衛兵を見つけました。列車が走りだした後で、仲間たちの話題は「孤立を恐れない」女子紅衛兵の存在に集中しました。分析好きの同行者は「疎外がないはずの社会主義社会での疎外」について講釈をしてくれました。印象に残ったもう一つは、その白けた素振りの女子紅衛兵の中山服のズボンに折り目が当たっていたことと、襟元に覗いた(或いは覗かせた)セーターのオレンジ色でした。このことは個人的な印象に留め、同行者たちには話さなかったと思います。(了)


    2016.08.22

    長春市で営業している「横浜正金銀行」 【蘇州たより 工藤和直】Vol.54 (読む時間:約2分半)

  • 2016.08.16
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