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『この世界の片隅に』 【上海の街角で 井上邦久】vol26 (読む時間:約4分)


    • 「バカにされたい大学」というキャッチコピーで受験生にアピールしているデジタルハリウッド大学(東京・神田)。「バカにされよう。世界を変えよう。」という姿勢で設立10年目を迎え、注目度を上げているようです。「学歴」とは、学校歴のことだけを意味して、学習歴は不問に付されることが続く中で異色の大学のようです。
      そのデジタルハリウッド大学の萩野健一教授に「聖地巡礼と地域再生」についての報告を身近で聴かせて頂きました。改めて言うまでもないことと思いますが、ここでいう「聖地巡礼」とは、アニメや映画の舞台となった街や土地を訪ねて、作中人物との一体化を試みる行動のことであり、エルサレム、メッカそして四国八十八か所といった聖地を訪ねる巡礼とは異なる新しい用語です。『ローマの休日』でのスペイン広場、『君の名は』で真知子巻きの岸恵子が待った数寄屋橋は映画作品から生まれた伝説的な聖地とされます。
      国内外からの訪問者が増え続けている『スラムダンク』の江ノ電踏切、『神様はじめました』の川越市などのアニメ聖地の紹介がありました。色々と新鮮な発想と情報を教えて貰いながら、「そこに住んでいる人たちがアニメをよく知らないから、なぜ急に人出が増えたのか?分からない」「増えた訪問者をしっかり捉えて地域再生にどのように結び付けるか?地元は手をこまねいている」など多くの現場の実態も知りました。ブームになっても、その多くは2~3年で潮が引いていく傾向があるようで、順風が吹いている間に、地域に根付いた産業や文化に育てるには、受発信を担う地元のキーパーソンを育むことが最も重要だ、という一つの指針に導かれました。
      クールジャパンの掛け声が大きくなる前から日本のアニメの世界的な浸透力は潜在的に広まっていたのであり、最近になって鋭角的に顕在化してきたのではない、という分析には体験的にも同感できました。ただ、それに続く「アニメの技術が優れているから評価されているという見方は皮相的であり、海外の人たちはアニメを通じて日本の文化や日本人の発想法を発見しているのだ」と主張される萩野教授の考察見地が大切だと思いました。アニメ聖地の住民が「なぜ人が来るのか分からない」状態が、実は日本全体にも共通していて、多くの海外からの来訪者の来日目的や心情が「分かっていない」のではないかと考え始めました。


      上海でもアニメ『君の名は。』が封切られ、爆発的な集客に関する報道や口コミが伝えられています。春節前後から新たな四ツ谷の須賀神社など新しい聖地巡礼の対象が増えることは間違いないことでしょう。前評判も高く、封切り前から既視感覚さえ感じていた人たちは、早々に日本渡航の手配を済ませているのかも知れません。一方で『君の名は。』は、いずれ航空機内サービスで視れば良いのではという余裕のある方々もいるようです。一方、DVDや機内サービスではなく、映画館に通って観てもらいたいと思うのは、こうの史代原作の『この世界の片隅に』であります。


      こうの史代が漫画アクションに連載していた『夕凪の街 桜の国』を単行本で読んだのは十年以上前になります。その後、麻生久美子・田中麗奈らが演じる映画を観てからも十年近くになります。原爆投下後の広島に住み続けながら、貧しい生活のなか、原爆の後遺症やトラウマに戦い続ける人たちを描いたある意味で神聖な作品でした。
      あまりにも高い評価を受けた作品のあとでの『この世界の片隅に』でしたが、肩に力を込めた神聖な世界ではなく普通の人たちの生活や世間に誘われます。夕凪の街である広島市郊外の漁村から軍港のある呉へ嫁ぐ主人公すず。実直な夫や双方の家族とのほのぼのとした世界。幼馴染の水兵や遊郭で働く貧しい出自のリンとの交流も含めて、等身大に描かれた庶民の暮らし、まさに世界の片隅の生活を細部に至るまで丁寧に積み上げていきます。積み上げた時間の長さを知らされただけに、呉の大空襲、そして広島の原爆投下によって多くの生命と記憶が短い時間で損なれたことを痛烈に感じます。ほのぼのとした世界が、瞬時に失われる酷さを感じました。長崎への原爆投下を描いた山田洋次監督の『母と暮らせば』にはある種のファンタジーが漂い、こうの史代の『この世界の片隅に』には強ばりのないリアリティを感じました。


      上海では映画館上映の機会が限定的ではないかと推定される『この世界の片隅に』ですので、呉や広島が「聖地巡礼」の対象になるとは一概に言えません。しかし、多くの人たちにも何とか作品に接する工夫をしてもらい、その高度なアニメ技法とともに庶民の粘り強さや向日性気質などを感じとって貰えればなあ、と思います。
      正月や春節休暇を日本で過ごす日本人や海外からの来訪者たちのために、この映画が出来るだけ長く上映され続けることを期待しています。仮に映画館へ行くタイミングを逸した場合には、原作の漫画単行本、或いは雑誌『ユリイカ』11月号の「こうの史代特集」で、その世界に接することも可能です。(了)


    2016.12.21

    十度の荒廃から蘇った城郭都市「蘇州」 【蘇州たより 工藤和直】Vol.62 (読む時間:約8分)

  • 2016.12.09

    五角場 【上海の街角で 井上邦久】vol25 (読む時間:約3分)


    • 10月某日、某所にて、上海D大学のC教授からじっくりお話しを聴かせて頂きました。
      スターバックスのマグカップを前に置き、雑談をすることを惜しむようにメインテーマを語り合いました。C教授が学会に発表される「大上海計画」についての個人授業という、とても贅沢な時間の始まりでした。
      「大上海計画」は、1927年から1937年に南京の国民政府が立てた上海都市現代化を目的とするものであり、その中心理念は民族の発展追求、その核心地域は江湾地区、今の五角場でありました。2010年頃に五角場を歩いたことを思い出しながら地図をたどると、時計回りに淞滬路・翔殷路・黄興路・四平路・邯鄲路の五本の道が形成するペンタゴンの中心が五角場。そして周りには経軸に国政路・国庫路・国和路などの「国」が付く道、横軸には政府路・政治路・政立路などの「政」を冠にする名前の道が沢山あります。2010年当時の政府路などは鄙びた路地のような小路であり、道路名の大きさとのギャップに思わず笑ったこともあります。


       教授の資料によれば、1927年7月に上海特別市政府が成立し、南京とともに中央直轄市になり、同年11月の「大上海計画」設計委員会成立に基づき、市政府大廈(現在の上海体育学院)、スタジアム(現在の江湾体育場)、プール、博物館(現在の長海医院)、図書館(現在の楊浦区図書館)などが1930年前後にかけて陸続として建設されています。


      「道路命名には国民政府が重視する用語が採用されています」、「建築物の設計に三か所の窓やアーチが採り入れられているのは、国民党が掲げる三民主義の影響ではないでしょうか?」という五角場散歩の印象記憶からの素朴な質問に、教授は前者の命名の件は間違いない、後者の設計理念は分からないという冷静な回答を為さいました。
      「同じ時期に、列強租界地を新設の東南西北の中山路で囲ってその増殖を喰いとめようとした、そしてその囲いの外に自分たちの都心を造ろうとした、それが五角場である、という解釈は正しいのでしょうか?」という質問に、教授は「対、対、対」と力を込めて肯定されました。
      更には、その時期の中国経済は地域限定的ながら、高度成長とも言える発展ぶりであり、官僚資本家・民族資本家が力を蓄えつつあったことが、五角場建設などの「大上海計画」の背景にあったことも間違いなさそうです。
      また、医療中心やモデル学校設立や全国体育大会の開催など、孫中山が目指した「民生」の具現化とも言える先駆的な試みもあったことを教わりました。
      もちろん、明るく輝くばかりではなく負の側面もあったことは事実でしょう。ただ、これまで、1949年の中華人民共和国成立までの負の部分、暗部が強調されすぎていたのではないかと気づきました。
      1937年夏の第二次上海事変、そして日本軍部の戦線拡大派の抬頭により「大上海計画」は頓挫。そのまま歴史の遺物のような存在として眠り続けることになり、経済発展、国民教育、民生進歩といった近代中国の夢の実現は立ち消えになりました。
      そして今、上海副都心計画の重要拠点として五角場の拡大は凄まじく、商業や文教の核としての存在感を高めているようです。
      五角場の鄙びた小路に時代錯誤的な名前が残っていることには、「笑えない」歴史的な背景があることを改めて感じています。C教授の引率で五角場をまた歩きたいと思います。
      そんなことをお願いして、冷えた珈琲を飲み干しました。(了)


    2016.11.23

    太湖の南、「徳清県古橋群」を訪ねて 【蘇州たより 工藤和直】Vol.61 (読む時間:約2分半)

  • 2016.11.22

    春秋戦国時代の貨幣制度 -後編- 【蘇州たより 工藤和直】Vol.60 (読む時間:約5分半)

  • 2016.11.05

    神無月 【上海の街角で 井上邦久】vol24 (読む時間:約4分)


    • 今日、10月19日(水)は、陰暦9月19日。今年は9月、10月と続けて陽暦と陰暦がちょうど一か月ずれなので憶えやすくて助かります。昼間はまずまずの好天でしたが夕方から曇りがちになり、今宵一九夜の月の光は未だ見えません。
      今日は魯迅(周樹人)の命日にあたります。1936年10月19日、55歳の一生を上海市虹口で終えています。主治医の須藤医師の診断内容は竹内好『魯迅』に詳しく記されています。また井上ひさし『シャンハイ・ムーン』でも臨終のシーンが描かれています。一言で言えば、国民党や左翼文学者との激しい諍いの過程で、魯迅の身体はボロボロの状態であったと思われます。
      「今天晩上、很好的月光」で始まる『狂人日記』、自序に続く『狂人日記』に始まる14編の作品集『吶喊』には『故郷』や『阿Q正傳』も収められています。そして、『吶喊』に始まる小説と雑感文章により魯迅の存在感が高まったことに大方の評価は変わりません。
      魯迅は日本と中国の関係が決定的に悪化する前に逝去し、中国共産党が政権樹立後に、魯迅を中国現代文学の旗手として高く評価したことにより、長く神格化されてきた印象があります。最近になって、身の丈通りの魯迅を伝えようとする著作や展示が目に入るようになりました。一例として藤井省三教授の著作で魯迅と許廣平の関係を「女子大教師と教え子との不倫関係の同棲」とする率直な表現に触れ、虹口からハイヤーを飛ばしハリウッド映画を観に行っていたという有名なエピソードも再確認しました。魯迅記念館の研究職には魯迅の妻、朱安についての『私も魯迅の遺物です』という著作があります。この数年で記念館の展示も大幅に変わりました。朱安夫人の写真も展示されています。一方では、共産党新政権の要職に就いた許廣平女史は、魯迅の母親と正妻への送金を続けたという記述もあります。そして、ある人から「魯迅が革命後も存命だったら?」との問いかけに、毛沢東は「相変わらず陰でぶつぶつ不満を漏らしているか、とっくに批判されて消えていることだろう」と応えたという話を聴いたことがあります。


      あるベテラン教授から中国に関するテキストリーディングの指導を受けています。先週は、近代詩の先駆者の徐志摩の『你去』という詩を読みながら、中国語文法の基本を鮮やかに解明してもらいました。今週は、毛沢東の詩文、書のお話でした。その取りかかりとして、勤王の僧である月性の詩『将東遊題壁』を読みました。月性は西郷隆盛と入水自殺を遂げ、西郷は死に至らなかった。その友人の詩を西郷隆盛が大切にしていたことから、この詩が西郷作であると誤解した十七歳の毛沢東が同じような星雲の志を詩に残している、という繋がりでした。
              男児立志出郷関   学若無成不復還
              埋骨何期墳墓地   人間到処有青山
      人間(じんかん)到る処に青山(墓所)あり、という七言は良く耳にします。
      10月19日に毛沢東に関する指導を受け、しかも月性の詩を導入部として読んだことは、偶然とは言え、今日を命日とする魯迅に思いを馳せ、併せて本日を誕生日とする我が身の来し方を振り返る縁(よすが)になりました。


      本編も含めて、1930年代の上海を中心としたテーマで拙文を綴り、毎月不特定の読者の皆様にご笑覧願って足かけ3年になります。それ以前から「上海たより」「北京たより」そして「中国たより」と拠点の名を付した極めて個人的な発信を、毎月特定の方々宛てにお届けしています。二つの文章発信の場と姿勢が違うので、内容を極力重複させないように努めているつもりです。ただ、この神無月10月はその戒めを破って「中国たより『青島会』」と題する拙文との共用を以下の通りさせて頂きます。


      この夏、加藤陽子さんの『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(2010年)が新潮文庫に入り、続いて同じ八月に『戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗』が出版されて、ともに刷数を増やしているようです。
      日清・日露そして第一次大戦が流れとして繋がっていること、そして山東半島や青島がその繋ぎ目として重要な土地であることが改めて解明されています。
      二冊の本は、中高生に授業形式で話を進めるスタイルが共通しています。優秀な中高生が鋭い指摘や回答をしていることも共通しています。後書きで加藤さんは、中高生とともに中高年にもどうぞ、とお誘いをしています。
      「近代史、現代史を授業では習っていないからなあ・・・」という言葉をしばしば耳にします。何故、授業で教えないか?本当に教えていないのか?についてはよく分かりません。ただ、仮に授業での印象が少なくても、知る・学ぶ方法は色々あることを加藤さんは示しています。


      10月19日の夜も更け、高い空で月が光っています。(了)


    2016.10.20

    春秋戦国時代の貨幣制度 -前編- 【蘇州たより 工藤和直】Vol.59 (読む時間:約9分)

  • 2016.10.17

    ソウル城門城壁跡「漢陽都城」を歩く 【蘇州たより 工藤和直】Vol.58 (読む時間:約2分)

  • 2016.10.03

    青島ビールと即墨老酒 【蘇州たより 工藤和直】Vol.57 (読む時間:約3分)

    • 青島には二つの酒がある。一つは皆が思い付く青島(チンタオ)ビールである。もう一つは2300年の歴史を誇る即墨(ジーモー)老酒である。青島ビールは115年の歴史をもつ中国で一番古いビールのひとつである。主力工場は青島駅から北東に約3km行った台東地区にある(青島市登州路)。即墨老酒は、青島ビールからほぼ北に50km、春秋の時代から同じ名前を持つ「即墨」の銘酒である。即墨は青島が出来るまでは山東省東部で最大の都会であった。即墨故城は春秋時代に古硯鎮大朱毛村一帯にあった南北5km、東西2.5kmの外城と内城から成る古代都市である。その歴史は紀元前567年春秋時代になるので、2600年の歴史が漂う。


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      青島麦酒(チンタオビール)は、1903年に山東省青島で製造が始まった、ビールのブランド。中国で最も古いビールのひとつである。青島は1898年よりドイツの租借地となり、租借地経営の一環としての産業振興策としてビール生産の技術移転を行った。1903年ドイツの投資家がこの地でのゲルマンビール青島株式会社を興してビール製造を開始、ドイツのビール醸造技術を採用したのが始まりである。1914年、第一次世界大戦で日本がドイツ権益であった青島の租借権等を引き継ぐことを認められ、その一つであった青島ビールも日本の大日本麦酒が買収し経営を行うこととなった。大日本麦酒は設備を拡大して、この工場で札幌ビールと朝日ビールの製造も行なった。1922年の山東還付条約によって山東半島に関わる日本側の諸権益は中華民国に返還されたが、青島ビールの経営は引き続き大日本麦酒が行った。1945年の日本の敗戦によって青島ビールの経営権は中国側に完全に接収され、中華民国及び中華人民共和国国営企業による経営が行われた。青島ビールはドイツと日本の技術がブレンドされたものといえる。現在世界5位のシェアーであり、燕京ビールとともに中国トップシェアー銘柄であるのも不思議でない。青島では、飲食店でビールを注文する時、銘柄でいうのでなく工場のナンバーで注文を出す。第一工廠(一厂)、第二工廠(二厂)、第五工廠(五厂)と言った類だ。工場の違いが味の違い、個人の好み(辛口・甘口・にがみ・きれ・アルコール度)の違いになる。写真は第一工廠製造のビールである。そして読者の方に言いたい、「青島ビールは、青島市製造品を青島で飲むのが一番うまい」。


      老酒とは黄酒(紹興酒もその一つ)を長く寝かせた醸造酒で、長江の南の紹興酒は糯(もち)米に小麦麹を使うのに対し、北の即墨老酒は黍(きび)に米・麦麹を使う。黄酒がアルコール度15~18度に対し、即墨老酒は11度足らずと実に飲みやすい。色は薄い琥珀色から紹興酒のように醤油色があるが、濃い色にも関わらず非常にまろやかである。黍を焙煎して作るのでやや焦げ臭いのが特徴である。この即墨老酒には2300年前の経緯があるのに驚いた。


      紀元前284年戦国時代、燕の将軍「楽毅」が、5か国連合軍を率いて斉を攻めた。斉の首都「臨淄」をはじめ小城70余城がことごとく陥落する中、莒と即墨の2城のみがとともに斉側に残った拠点となった。その後数年に渡る篭城攻防の末、即墨は、将軍「田単」の登場によって落城することなく、また彼の活躍によって斉は国土を再び回復することができた。即墨老酒は将軍「田単」が燕との戦いの前に兵士と飲み、ついには燕軍を破る大勝利となったという縁起物の黄酒である。勝負事がある時或いはお祝いの時に飲む酒となった。


      さあ、今宵の中秋の名月、ドイツと日本の技術による青島ビールでまず乾杯し、戦国時代に起こった2300年前の故事を思い出しながら、家族や友と一献どうであろう。「みなさんと乾杯!」


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    2016.09.22

    中日大辞典 【上海の街角で 井上邦久】vol23 (読む時間:約4分)


    • 長年お世話になり、ずっと身近に置いている書物は『中日大辞典』をおいて他にありません。
      最近では、電子辞典の普及で重くて大きな辞書とは縁が薄くなる傾向にあるのでしょう。また熱心に新語を採り入れて増補改版を重ねている『中華現代漢語詞典』のような便利な存在もあります。その他にも各種各様の辞書が出版されて必要に応じた購入ができる今、『中日大辞典』がどのように位置づけされているかについては詳らかではありません。しかし個人的な思い入れが深い辞典であることに変わりはありません。


      手元に置いている愛知大学中日大辞典編纂処編『中日大辞典』には1968年2月1日発行、1971年4月1日再版発行と記されています。編者のことばとして、鈴木択朗編纂委員長は冒頭に「昭和初期以前に中国語を学んだ人にとって最大の悩みは教科書・参考書・辞書がすこぶる不備だったことである」と書かれています。その空隙を埋めるべく上海の東亜同文書院にて日中中国語教師により辞典編纂の準備が始められるも、敗戦によりカード約14万枚、語彙数にして7~8万語の資料が中華民国に撤収され、戦後・革命後に内山完造日本中国友好協会理事長と郭沫若中国科学院院長の仲立ちや周恩来首相の理解の下、1954年9月に引揚船興安丸で日本へ返却され、東亜同文書院の後継である愛知大学にて辞書編纂が再開され、更に十数年を費やして『中日大辞典』が完成されました。
      東亜同文書院の成り立ち、愛知大学の創立そして『中日大辞典』編纂の詳しい経緯については、藤田佳久愛知大学名誉教授による『日中に懸ける  東亜同文書院の群像』(中日新聞社)に詳しく、芥川賞作家の大城立裕氏(1943年に東亜同文書院入学)の『朝、上海に立ちつくす―小説東亜同文書院』(講談社・中公文庫)も実体験者ならではの描写がリアルであった記憶が残っています。
      また教師として、辞書編纂チームにも参画した坂本一郎先生は戦後に関西の大学教授のかたわら蝶理株式会社の中国貿易室でご指導をされていました。短い期間ですが謦咳に触れながら、とても偉い先生と聞いて遠くから燈台のように眺めていることが多かったことが悔やまれます。
      岩波書店から出ていた倉石武四郎氏の編纂による『ローマ字中国語辞典』はローマ字拼音で引く辞典というユニークなものでしたが、なかなか使いこなせずに弱っていました。そんな中国語学習の入門者に『中日大辞典』発行のこと、そして部数に限りがあり入手が困難であることが伝わってきました。1971年の秋の日、再版本が京都御所近くの彙文堂で入手できることを知り、大枚4,000円を握り締めて向かったことを憶えています。3畳一間の下宿屋の家賃が3,000円、そして一か月の生活費が1万円でしたから大きな出費であり、生まれてから一番高い書籍購入でした。しかし、大げさではなく沙漠の羅針盤のようなこの大辞典のお蔭で様々な学恩を貰いました。 東亜同文書院は南京同文書院を編入して、上海黄浦江左岸の高昌廟桂墅里に校舎を開設。辛亥革命後のいわゆる第二革命の内戦時代に破壊されるも一時的に長崎や大村の寺院や上海の共同租界での仮校舎住まいを経て、徐家匯虹橋路の新校舎を建設しました。全国都道府県から自治体の経費負担で各二名の推薦派遣学生を受け入れています。


      東亜同文書院は外地での日本人の為の中国研究、中国語研鑽の教育機関として著名でありますが、逆に中国人にとっての日本研究、日本語学習の学校として、弘文学院や東亜高等予備学校が著名であることを、譚璐美さんが白水社のHP連載を加筆された新刊『帝都東京を中国革命で歩く』(白水社)で教わりました。
      東京市牛込区西五軒町34番地(現、新宿区西五軒町12,13番著)、江戸川橋交差点から神田川沿いにあった弘文学院には清末から民国にかけて7,192人の中国人が入学したとのことです。その中の一人、魯迅(周樹人)は弘文学院で二年間学んだあと、仙台の医学専門学校(後の東北帝国大学医学部)に推薦入学しています。
      東京市神田区中猿楽町6番地に所在した東亜高等予備学校は、年に1,000人から2,000人の中国人留学生が入学した学校で、周恩来・郭沫若・廖承志そして譚璐美さんのお父さんも学んだ教育機関です。1945年、閉校となりました。


      北京、上海そして日本で多くの大学生と交流してきました。日本語弁論大会への支援、集中講座などへの出講、個人的な相談など様々な形で若い世代の中国人や日本人と接しています。十九世紀末から始まった日本と中国の学生交流の足跡を学びながら、自らの若い時代の実践や体験を記録し、次の世代へより良い形でバトンを渡すこと、これが「活到老、学到老」の基本であり、目的の一つかなと思う今日この頃です。(了)


    2016.09.13
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